なぞる

なんか書いたやつ

目次(2018)

はじめに

 このブログはもともと、自分の書いた文章をなんとなく載せていたものだった。「何を書くためのブログ」みたいな趣旨がなかった。10月ごろからなんとなくその趣旨の輪郭が出来上がってきた。「やさしいことばで、背伸びしないで文章を綴る」という趣旨である。

 

    先日、その趣旨説明を書いた。これは、いわば、このブログの「前書き」にあたる。

genlikeapplejuice.hatenablog.com

 やさしいことばだけでも、自分の文章を編むことができる。自分の理解していることばだけで文を作っていくことは、乗り物に乗らずに一歩一歩自分の足で歩くようなものだ。飛行機に乗る妄想をしても仕方がない。ぼくはあきらめて、履き慣れたスニーカーで歩くことにした。

 

 このブログは、やさしいことばで書かれたエッセイ集として、10月からは書かれた。知ったかぶりをしてカッコつけないようにすることを気をつけた。*1

 

    この目次では、2018年に自分の書いたエッセイを紹介していく。初めてこのブログを読む人や、読み直したい人がもしいたら、参考にして欲しい。

 

1. ことばは暴力

 

 特に意図したわけではないが、このブログは意図せざる結果として、ことばについてのエッセイが多い。一つには、背伸びしない自分のことばで書きやすいという理由もあるが、最も大きな理由が、ぼくが話すことが下手で、かつ書くこともそこまで得意ではない、という事情にあると思う。小さい頃は特に、ぼくは話すことや書くことが苦手だった。

genlikeapplejuice.hatenablog.com

ぼくはこの文章をわざとポエティックに書いているわけではなく、どうにか自分の頭の中に浮かぶものごとをまとめようとしている。頭に浮かんだことばのうち、伝わらないことばをどうにか捨てて、伝わることばを必死に探している。それでも、どうしてもぼくは上手にことばを話すことができなくて、最終的に遠回りばかりの文章になってしまうのだ。

 

 ぼくはことばが通じないことだけではなく、ことばというものが誰かを傷つけてしまうことに怯えていた。

genlikeapplejuice.hatenablog.com

Aさんとの関係を定義することは一種の暴力に思える。僕はAさんのことが好きなので、暴力を振るいたくない。でも説明の便宜上、僕はAさんを「友達」と呼ぶ。僕らの関係性が、ナイフみたいな言葉で血を流すのを感じながら、僕は笑顔を振りまいてAさんのエピソードトークを続ける。

 

 「友達」ということばが使うことが苦手なのは、ぼくたちの関係性が、ことばによって暴力的に規定されてしまうからだ。ことばはぼくにとってナイフだった。

 

 だけど、ぼくはこんなことも思う。「ことばは暴力かもしれないけれど、全面的に禁止してしまったら、ぼくたちは何も話せなくなってしまう」

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つまりぼくは、想像力が高まるにつれて、こういうことを考えるようになった。「ぼくが発したことばは、もしかしたら意図せざる結果として誰かを傷つけるかもしれない。だから、ことばを発するときには、それが暴力にならないように細心の注意を払わねばならない」

すべての表現は暴力として働く可能性がある。そう考えたときに、暴力は単純に否定できるものではないかもしれない。

 

 あるいは、想像力もまた暴力に近しい概念なのかもしれない。

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 想像力は暴力だ。あるいは、想像力を通じて発せられたことばは暴力だ。なぜならば、ある種の意味では、相手の立場に立つということは絶対にできないことだからだ。ぼくと属性がほとんど同じ人がいたとしても、ぼくと彼は違う人間な以上、彼の気持ちを完全に推し量ることはできない。
 だけどそうした暴力的な想像力が、暴力的なことばが誰かを癒すことがある。何かを考えさせることがある。誰かを喜ばせることや、安心させることや、モヤモヤを晴れさせることがある。
 
 この文章は「ことばは暴力」のパラフレーズだ。想像力はことばを介し、誰かを暴力的に規定する。だけど、暴力だからといってそれは単純に否定できるものではない気がするのだ。
 
2.まなざしのなかにあるもの

 

 概念のようなものは、社会に実在するものというよりむしろ、ぼくたちのまなざしの中にある気がする。

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「生まれる」と「死ぬ」は誰かのまなざしの中にしか存在しない。

 

 生死の日時が一つに決まることがなんだか恐ろしくなって書いた文章だ。

 

 

 「キャラ」とか「素の自分」とか「裏の顔」みたいなものも、社会的に構築されたものだと思う。

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「裏表がある」と言われるが、ぼくが「表」しか見せていないとき、無理矢理にぼくをめくっても、そこには何もないだろうし、逆に言えば親しい人に「裏」を見せているのだとしたら、それをめくっても表のぼくはもはやいない。

 


3.ことばの話

 

 

 オリジナルに産み出したことばなんてあったっけ?みんな無意識にいろんなことばパクってない?って話。

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 ことばにはサジェスト機能がある気がするね、という話。

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  実は「2.まなざしの中にあるもの」とも関連。

 ぼくは社会を信じる。社会を触媒にきらめくことばを信じる。よくわからないぼくのことばが、いつか誰かのまなざしの中できらめくことを、ぼくは信じている。

 

  「ことばがきらめく」という概念は実はここにも出てくる。

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言葉にくっついたイメージは、いつしか自分だけの特別な宝物のようにきらめいていく。   

 

言いたいのに言えないことってあるよね、という話。

 

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  「かわいい」ということばの意味の話。傷ついた人向け。

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  ことばが社会に開かれるときの話。

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4.おわりに

 2018年に書いた記事のうち、おもしろいと思うものをピックアップして目次を作った。おそらく今年のブログのテーマは「ことばは暴力」に収斂していて、その前提として「まなざしのなかにあるもの」みたいな社会的な構築物として物事を捉える、という考え方が働いていると思う。はっ、難しいことばを使っている!!2019年はこの2つを結びつけた文章を書くところからはじめていこうと思っている。まあのんびりと、ゆるりと書いていきたい。

 

 ブログを書くというモチベーション抜きに、「あっ、いい文章書けたから見て!」みたいな理由で載せた最初の「なぞる(1)」の出来がいいのは当然なのだが、それよりも今年一番上手に書けた気がするのは「猫もぼくだよ」である。あれくらい力を抜いて書きたいものだ。「考えてから話せ」もいい。文章の最後はしっかりオチをつけるのが好きなのだけど、その力の抜け具合で最初から書けたらいいのになあ。

 

 来年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

*1:例外として、「想像力のないぼくは夢を見る」は、エッセイと見せかけたある種の演説だが