なぞる

なんか書いたやつ

考えてから話せ

  小さい頃、父親に「考えてからものを言え」としょっちゅう怒られていた。ぼくはおしゃべりだったけれど、途中で自分でも何が言いたいのかわからなくなってしまうことが多かった。授業で習ったばかりのことばや、本で読んだばかりのことばを使ってみたかった。だから、訳もなくぼくの話はややこしくなった。まるで、論述問題で使い方のわからない指定語句がひとつ残ってしまったときのように、ぼくの話は混乱し、上手に伝わることはなかった。

 


  だから、父はやさしさとして、「考えてから話しなさい」とぼくに何度もアドバイスした。言いたいことを自分で整理してから話すようにしなさい。そうすれば、お前の言いたいことは伝わるから。

 


  でも実際には、ぼくは「考えて話す」ことができなかった。ことばを使って考えるときに、ぼくは頭の中で文章を作る。それはいわば、頭の中で独り言を言っているような状態だ。ぼくはその「頭の中の独り言」と「相手の話を聴く」ことを両立させることができない。相手の話を聴きながら、頭の中で文章を作ることがてきないのだ。

 


  だからぼくは、父に「考えてから話せ」と言われたら、ほとんど黙っていた。たまに頑張って会話と会話の切れ目に文章を構築しようとするのだけど、意識をすればするほど脳は上手に働かず、「これはペンです。」とか「お母さん(わりと長い空白)塩とって。」みたいなことしか話せなくなった。そうすると、父はぼくを「拗ねた」とみなし、平手打ちをしたり、「何ですぐ拗ねるんだ」と怒鳴りつけたりした。たしかにぼくはその当時よく拗ねたから、親を責めることはできないけれど、本当に「考えてから話せ」と言われることが苦痛だった。

 


   ぼくは「立派な大人」になれば、「考えてから話す」ができるようになると思っていた。でも齢21になった今も、ぼくにはそんなことはできない。

 


  ぼくは設計図通りにことばを編むことができない。というか、完璧な設計図は編み上がったことばそのものな訳で、設計図通りにことばを編むことに意味を感じられない。それに、なんとなく設計図を作ったところで、編み上がったものは設計図とは全然異なるものになることは目に見えていて、それなら作らなくていいや、と思ってしまう。

 


  ことば自体がことばを生み出すことがあるような気がする。それは言語そのものが持つサジェスト機能みたいなものだ。「もちろん〇〇なのだが、」と言ってしまった時点で、〇〇よりも説得力のある話を次に話すことが必要になる。「I have a」と言ってしまったら、もう名詞しか次には来ない。ことばは、文法的、語法的に他のことばを制限し、そして生み出す。

 


  そんなとき、設計図通りに文章を編むことは不可能だ。というのは、なんとなく入れたことばが新たなことばを生み、そしてそのことばは設計図を作ったときには想像もつかなかったような新しい世界を開く。ぼくにとって、「考えてから話せ」という命令は、不可能なだけでなく、新たな世界を開く可能性を無化してしまうものだ。

 


  もっと言えば、文法や語法だけでなく、「誰に話すか」とか「そのときの雰囲気」によってことばは変化しうる。結婚のプロポーズを入念に考えたところで、いざしてみると思ってなかったことばになってしまう。ことばは社会的に生まれるものなのだ。人間関係の相互作用のなかでことばは現出する。

 


 ぼくは、自分のことばが絡まったって構わない。たとえ閉ざされた頭の中のことばをそっくりそのまま取り出すことができたとしても、ぼくはそれに大した価値はないと思う。ぼくは社会を信じる。社会を触媒にきらめくことばを信じる。よくわからないぼくのことばが、いつか誰かのまなざしの中できらめくことを、ぼくは信じている。