なぞる

なんか書いたやつ

無知の知と言い切りの美

1
 
 中学校のとき、何かの試験の解答欄に「無知の知」と書かされたことを覚えている。国語の試験だったのか、それとも社会の試験だったのか覚えていないけれど、返って来た答案用紙にマルがついているのを見て、ものすごくアイロニーを感じたことは覚えている。解答欄に解答を書き込むのは、「知っている」というアピールであり、むしろ全ての問いに「わからない」と答える方が、ソクラテス的には正しい態度のように思えたからだ。
 
 
 「無知の知」ということばは、もちろんパラドックスだ。何も知らないということを「知」と形容することができるなら、その人はそもそも無知ではないはずで、矛盾している。
 
 
 そのことばが示すのは、人間の能力には限界があるということだ。何かを「知った」つもりになっても、それが間違いである可能性はないとは言い切れない。ゆえに、不完全な存在である人間は、自身が既知とみなしたものに対しても常に疑いの目を向ける必要がある。
 
 
 
2
 
 
 「無知の知」がパラドキシカルに見えるのは、知っている/知らないという状態を、100か0かで捉えているからではないか。不完全な存在であるぼくたちが何かを完全に知り尽くすことは出来ないかもしれない。だけど、「全く知らない状態」と「ほとんど知っているつもりだけど間違っている可能性がある状態」を「無知」という同じことばで示すのは、少し雑な言い方にも思える。
 
 
 20世紀スペインの哲学者オルテガは、著書『大衆の反逆』で、「思想とは真理に対する王手である」(1930 :439)と述べている。*1これは無知の知パラフレーズとして捉えることができる。
 
 
 人間は不完全な存在ゆえに、いかなる思想も真理ではない。だからぼくたちは、自身が考えたことがどれほど真理に近いと思ったとしても、それを真理と捉えて驕ってはならない。無知の知とよく似た意味内容だけど、「全く知らない」と「ほとんど知っている」を区別する表現になっている。
 
 
 
3
 
 全ての思想、ことば、表現は真理ではない。その全ては間違っている可能性がある。そのようなことを考えると、何も言い切れなくなってくる。授業のレポートの全ての文末に「〜だと私は思う」「〜のような気がする」と付けたくなってくる。そんな文章はうざったくて読みづらいから、BackSpaceキーを長押しして消すけれど、一介の若者に過ぎないぼくが、何かを言い切ることがあまりにも不遜に思えてしまう。
 
 
 一方で、間違っていたとしても何かを言い切りたくなるときがある。人を慰めるときなんて、言い切らずにはいられなくなる。「私なんかダメ人間なんだ」と目の前で泣いてる人に、「いや、ぼくはダメじゃないと思うよ、あるいはダメかもしれないけれど」なんて言えない。村上春樹かよ。
 
 
 言い切ることは、不遜なのかもしれない。誤っているかもしれないことばを留保なしに放つことは、暴力なのかもしれない。それでも、「きみはダメ人間なんかじゃないよ」と言い切ってしまいたい。
 
4
 

朝焼けが僕らの耳を冷やしきり僕らは冬の一部に変わる

 

 
 という堂園昌彦*2の短歌には、言い切りの美があるように思う。肉体を持つ「僕ら」が季節である「冬の一部」に変わることができるのだろうか?季節に「変わる」という状態は一体なんなのだろうか?ことばに対して疑いを向けると、どんどんその美しさは見えなくなってくる。
 
 
 「僕(ら)は、僕らは冬の一部に変わったように感じた」と「僕らは冬の一部に変わる」は全く質の違う表現である。前者では、「感じる」という主語を一人にしないと不自然な感じがするし、実際の情景に確かに存在するアクチュアリティが消えてしまう。
 
 
  冬の朝、「僕ら」の身体は冷え切り、「僕ら」は季節の一部としてひとつになる。そんな情景を言い切りなく表現することは不可能だ。そんな「気がする」と言った瞬間に、情景の輪郭はぼやけ、美は濁り始める。
 
 
 何かを言い切ることがたとえ不遜であろうと、言い切ることによってのみ表現できる慰めや美があるように思う。もちろん、全ての表現は誤っている可能性があるのだけど、常にその誤りに怯えていては、ぼくたちは動けなくなってしまう。
 
 
 言い切りには美があるように思う。いや、言い切りには美がある。BackSpaceキーを押す。

*1:オルテガ,1930,『大衆の反逆』責任編集高橋徹マンハイムオルテガ』世界の名著68,中央公論社.

*2:堂園昌彦,2013『やがて秋茄子へと到る』,港の人収録.