なぞる

なんか書いたやつ

ことばの暴力

 小学校のときに、けんかが起こると、だいたい先生が仲裁に入って、だいたい両成敗で終わるものだ。


 ぼくは一度、どうせ先生が仲裁に入るなら、手を出さない方が得だろうと考えて、全く手を出さなかったことがある。性格の悪いこどもだな、と自分でも思うのだけど、気に入らない奴に悪口を言いまくって煽り、手を出して来てからはわざと無抵抗になる。そうすれば、ぼくはなにも悪いことをしていないし、先生はぼくを100パーセントかばうだろう、と考えたのだ。


 もちろん、そんなにうまくはいかない訳で、ぼくはボコボコにされた挙句、先生にもこっぴどく怒られた。先生曰く、「ことばの暴力はいけません」だそう。


 そのころぼくはことばの持つ暴力性を全く理解していなかったけれど、その事件があって以来、ぼくはこのフレーズを水戸黄門の印籠のように持ち出すようになった。誰かがぼくに対して悪口を言ってきたら、「ことばの暴力はいけないんだ〜」と言い返して、被害者面をした。


 成長するにつれて、ぼくは友達が傷つけられることに対しても、怒りを覚えるようになった。あるいはもっと大きな概念のレベルでも「ことばの暴力」を感じるようになった。例えば、「女の腐ったようなの」とかいう言い回しに対して、「それは明らかに女性を下に見た言い方だな」と感じるようになった。嫌いなことばがたくさん増えて、ぼくはそういったことばを使うことを避けた。


 だけど、そのような「ことばの暴力」概念はどんどん拡張されて、歯止めが効かなくなった。「人身事故で電車が止まって最悪だ」なんて言えなくなった。だって、そんなことばを聞いた人のうちに、ひょっとすると親戚を自殺で亡くした人がいるかもしれない、って思うようになってしまったからだ。あるいは、「友達」ってことばも使えなくなっていった。ぼくはAくんのことを友達と思っていても、Aくんはもしかしたらぼくのことが大嫌いかもしれない。そんなとき関係性を「友達」と規定することはある種の暴力に思えた。


 つまりぼくは、想像力が高まるにつれて、こういうことを考えるようになった。「ぼくが発したことばは、もしかしたら意図せざる結果として誰かを傷つけるかもしれない。だから、ことばを発するときには、それが暴力にならないように細心の注意を払わねばならない」


 でも、そんなことを考えていくと、話すことはどんどん困難になっていく。「〇〇くんっていう友達がいて、あ、いや友達ではないんだけど」って言った回数は数知れない。そうすると相手は、「ぼくは〇〇くんのことが好きではない」みたいに誤解する。それならばいっそのこと「ぼくは〇〇くんって子が好きなんだけど」って話すと、相手はなにか恋愛めいたものを感じる。ぼくはどんどん話すことができなくなり、また、話すことに臆病になった。


 ぼくは話すことが怖くなり、「コミュ障」と自分を名乗るようになった。そうすれば、自分のことばが意図せざる結果として誰かを傷つけようと、それはぼくが障害を持っていることが理由になるのではないか、と考えた。ぼくはそのころ本当に自分が何かしらの欠陥を抱えた人間だと考えていた。だけど、実際にはぼくは障害としての「コミュニケーション障害」ではなかった。そして、自分の名乗る「コミュ障」が、本当の障害のひとを傷つけているような気がして、ぼくはそう名乗ることもやめた。


 もしかしたら、全てのことばはどこかで誰かを傷つけうるのかもしれない。夕日を見て「きれいだ」と言ったことばは、夕日が大っ嫌いなあの子の胸を刺すかもしれないし、「蚊に刺された」を間違って「カニに刺された」と言ってしまう少年に対して、きみが笑って「違うよ」って言ったことを、少年は嘲ったように感じて一生恨むかもしれない。全てのことばは世界を分節する以上、ある種の暴力にならざるを得ないのかもしれない。


 あるいは、形式的には暴力でしかない何かが、人を癒したり、元気付けたりすることもある。


 夜遅くなると、お父さんがぼくに向かって、「もう寝なさい」と言うのが大っ嫌いだった。どうして命令口調で言われなきゃならないんだと思った。ぼくは「それはことばの暴力だ」とよく訴えた。「お父さん、『もう寝なさい』じゃないでしょ、『夜も遅いし、そろそろ寝ませんか?明日は早いから』でしょ、言い直して」なんてぼくはよく言ったものだ。すべからく命令文は暴力だ、とぼくは考えていたから。


 それでも、お父さんは口癖のように「もう寝なさい」とぼくに言ってきた。ぼくが怒ると、「ごめんごめん、癖で」と謝ってくれた。


 あるとき、すごく辛いことがあって、ぼくが大泣きして目を腫らし、自分でもどうしたらいいかわからなくなって混乱したときに、お父さんがぼくに「もう寝なさい」と言ってきた。ぼくはとっさに言い返そうかとも思ったけれど、すごく疲れていたので、お父さんに従った。何をしたらいいかわからなくなっていたぼくにとって、その命令はある種の癒しだった。暴力の形をとっていても、相手を癒すこともあるのだ。


 すべての表現は暴力として働く可能性がある。そう考えたときに、暴力は単純に否定できるものではないかもしれない。いかなる形であれ、誰かを傷つけることが許されないのだとしたら、何もできなくなってしまう。そうではなくて、暴力は倫理的な正当性がある場合には許されるものなのではないか?命令文という暴力的な発話形式が、相手を癒すためには正当化されうるように。


 だから、もし小さい頃のケンカでボコボコにされた自分を叱るなら、「ことばの暴力はいけません」じゃなくて、「あなたのことばの暴力はどうして正当化されるの?」と問うだろう。ぼくはきっとこう答える。「正当化ってなに?」やはりこういった話は難しいことばなしに伝えることはできない。ぼくはきっとめんどくさくなって、やっぱり命令文の形で「ことばの暴力はいけません」と言い聞かせるだろう。頭の中で倫理的な正当性を示しつつ。