なぞる

なんか書いたやつ

猫もぼくだよ

猫をかぶっている、とよく言われる。
 
 
たしかに、親しい人とそうでない人で対応が同じかどうかと尋ねられれば、答えは「NO」だろう。
 
 
仲のいい人とは、多くの前提を共有している。相手がどういったトピックが好きか、下ネタを話しても大丈夫か、出身や恋人の有無、どういった親に育てられたか、などなど。それだけでなく、何かのサークルやグループで一緒ならば、トピックとしてその人間関係(多くはゴシップかもしれない)を話すことも可能だ。
 
 
もっと仲が深まると、その2人にしかわからないことばが生まれてくる。それは、過去の会話のなかで生まれたフレーズであり、前提知識だ。その「2人のことば」を前提に新たなことばを生み出していくと、「2人の世界」が構築されていく。
 
 
ぼくはあまり、「いつメン」みたいな複数人間でコミュニケーションを取ることが得意ではないから、わからないけれど、いわゆる「いつメン」による「内輪ノリ」も、「いつメンの世界」を「いつメンのことば」で編み上げて造ったものだろう。
 
 
もちろん、そういう意味で、「2人の世界」に生きるぼくと、「みんなの世界」に生きるぼくは大きく異なる。話す内容も、話し方も、それから表情でさえも。
 
 
ぼくはその差が顕著みたいだ。初対面で相手を呼び捨てにすることが自然とできて、すぐに「2人の世界」を構築できるときもあれば、全くできずに出会って2年経った今も「みんなの世界」でしか接することができない人もいる。後者の人からすれば、ぼくはずっと猫をかぶっていて、距離を置いてくる鬱陶しいやつとして感じられるだろう。
 
 
それはある種の差別であり、申し訳ないのだけど、致し方ないことだ。ぼくはぼくのメカニズムでだれと親しくなるかを決める、きみはきみのメカニズムで決めればいい。
 
 
だけど、ひとつ言いたいのは、猫もぼくだということだ。ぼくから猫を剥ぎ取っても、そこに真のぼくは存在しない。
 
 
あるいは、「裏表がある」とも言われるが、ぼくが「表」しか見せていないとき、無理矢理にぼくをめくっても、そこには何もないだろうし、逆に言えば親しい人に「裏」を見せているのだとしたら、それをめくっても表のぼくはもはやいない。
 
 
猫もぼくだし、猫じゃないものもぼくだ。表も裏もぼくだ。そして、ここが一番重要なのだが、猫も猫でないぼくも、質が異なるだけで等価であるということだ。
 
 
人間はよく、「本音」に価値を求めて、「建前」を嘘だとする。親密な人の前では素でいることができる気がするし、「あいつの前ではまだうまく自分が出せないんだよね」とか言う。
 
 
本当だろうか?親密な人の前で、「素」というキャラを演じているだけなのではないか?逆に言うと親密な人の前では物事を大げさにしてしまい、思っていないことを言ってしまうことがある。恋人に無駄に熱いラインを送ってしまう。政治家の失言も、親しいと思ってる人のあいだでよく起こる。「2人のことば」が世界に放り出されたとき、そのことばはあまりにもひどいワードチョイスだった、ということはよくある話である。
 
 
あるいは「猫」のぼくはあらゆる「2人の世界」に開かれた存在かもしれない。一度世界が構築されてしまうと、その世界はあたらしく一からやり直し、という訳にはいかない。ぼくが「猫」であるからこそ、きみと新しい世界を作り出すことができる。
 
 
だから、まあ、百歩譲ってぼくが猫をかぶっていたとしても、猫もまたぼくの一部なんだ、ということはわかってほしい。猫は本音を話さないけど、話さないからこそ、価値がある。あとかわいいしね。