なぞる

なんか書いたやつ

飲み会について

むかし、飲み会とは行為から意味が剥がれ落ちる場であり、そこに美しさがあると書いたことがある。ぼくはお酒が飲めなくて、それでもこの文化に肯定的な意味を見出したくて、書いた文章だったのだろうと思う。
 
 
酔っ払いの言葉に過剰な意味を読み取ることは、あまり有益ではないと直感的に思う。たとえば、お酒に酔っ払った異性に、「〇〇さんのことが好きです〜」とか言われたとしても、それを真に受けることは間違っている。この「間違っている」という認識そのものが、ぼくたちの〈飲み会〉を成立させているのではないか、と思う。
 
 
つまり、飲み会の参加者は、お酒に酔うことで、あるいはその場にいることによって、自分の発言の信用を敢えて落とし、責任を免れている。そのことが、発言や行為とその意味の強い結びつきを緩めている。
 
 
もっと言うならば、その認識をぼくらは共有しており、だからこそ普段言いにくいことをひとは飲み会で語る。自分の発言に責任を過剰に持つことなく、話すことができる場。間違った表現でも、流れていく場として活用されているのではないか。
 
 
自分の発言に責任を過剰に持つことなく、話すことができる場。飲み会では、ことばの所有権や管理感覚をいつもよりも失っているという感覚がある。
 
飲み会にいると、ことばが浮いているという感覚に陥ることがある。それぞれの人々の発言が宙に浮いている。誰が発したのかもわからないことばが、誰に受け取られることなく、テーブルの上を雲のように流れ、いつの間にか空気に溶けてゆく。ぼくはぼんやりとそれを見ている。
 
暴走族が集団で同じように走行するのは、仲間の走る姿に自分を見ることによって、鏡のような空間を作り出し、ある種のゾーンに入るためだと読んだことがあるが、飲み会も自分と同じようにみんな飲み、酔っ払っているという感覚を視覚的に得ているように思う。
 
大人数で飲めば飲むほど、友達ひとりひとりの間に存在している違いは無視され、「みんなで飲んだ」という感覚になっていく。雰囲気の共有こそが重要なのだ。同じ経験を友達としたという感覚が、残ること。その履歴が重要なのだ。
 
 
 
 
飲み会は小さな旅である。ともにどこかの居酒屋で時間を過ごし、酔っぱらうという同じ経験をする。その場のノリがどのようになるかはわからない。飲み会に行く前の軽い憂鬱。それはコントロール不能なノリに身を任せることへの不安のことである。
 
 
飲み会に目的地はない。浮かんでいる言葉や行為の集合に、ノリに、身体を引っ張られて、ぼくらは動く。何かを達成するためではなくて、その空気にそれぞれが踊らされていることこそが、飲み会という現象を考える上では重要である。
 
 
そして、それは聖なる経験ではないか。うつくしい経験ではないか。自分の意思ではなく、誰かの意思でもなく、その場に流れる何かが、ぼくらを動かすという感覚に、ぼくは聖なるものを感じる。
 
 
あのとき、ぼくは確かにきみと握手をして、「今まで本当にありがとう」と言った。それは確かにぼくの意思で、それは確かに飲み会という場がそうさせたのだった。それはぼくのことばであると同時に、ぼくの外側からやってきたことばであった。二度と再現できない経験の履歴がお互いの身体に残ることを、ぼくは本当にゆたかだと思う。