なぞる

なんか書いたやつ

「好きな人」の話

サークルの後輩に、「げんさんって人を好きになったことなさそうですよね〜」と言われた。

 

どう答えたらいいかわからない。「そう、あんまり人のこと好きになれないんだよね〜」って答えればいいのか。いや、これはイケメンが言ったらかっこいいかもしれないが、僕みたいな人間が言ったら、なんかダサい。カッコつけてるみたいな気がする。

 

ただ、そんなことを言われるとは正直思っていなかったので、すごく困った。反省しなきゃなあ、と思った。僕はどちらかというと「好き」という言葉にはかなりこだわりを持って生きてきたからだ。

 

僕は「友達」って言葉があんまり得意ではない。説明しづらいので、ここでAさんを登場させておこう。Aさんは中学時代に知り合った部活の同期で、今もたまに会っていて、台湾にも旅行に行った、みたいな仲だとする。

 

BさんにAさんの話をする時に、「こないだ俺の友達のAがさ〜」みたいな話し方はする。それは仕方ない。Aさんとの関係性を説明するために、「友達」という言葉は便宜上使わざるを得ないからだ。

だけど、この時葛藤が起こる。<友達>という関係性は両思いの関係性なのだ。こちらがAさんのことを「友達」と思っていても、Aさんが僕のことを「友達」と思わない限り、そこに関係性<友達>は生まれない。ここで僕がAさんのことを「友達」と呼んでしまうことは傲慢ではないのか。Aさんは「現ちゃん?あーそんな人いたね?」って感じかもしれない。「あいつ嫌いなんだよなー」って裏で陰口を言ってるかもしれない。もしかしたら、Aさんは僕のことを「親友」って思ってるかもしれないし、恋愛感情を抱いてるかもしれないし、記憶喪失に陥っていて僕のことを忘れているかもしれない。

 

そんな時に「友達」として、Aさんとの関係を定義することは一種の暴力に思える。僕はAさんのことが好きなので、暴力を振るいたくない。でも説明の便宜上、僕はAさんを「友達」と呼ぶ。僕らの関係性が、ナイフみたいな言葉で血を流すのを感じながら、僕は笑顔を振りまいてAさんのエピソードトークを続ける。

 

最果タヒさんの詩に、「絆未満の関係性について」という詩がある。その一節に、このような部分がある。

 

 

わたしがかみさまなら、あなたとのこの関係性にあたらしく名前を付けて、友でも恋人でもなく、あなたの名前をつけていた。わたしがかみさまなら、あなたのことを、好きとも嫌いとも大事とも言わず、ふと出会ったそのときに、いっしょに食事をとっていた。

 

僕もそうあれたらいいのに、と思う。誰かとの関係性に「友達」「恋人」みたいな名前をつけたくない。もっといえば「好き」「嫌い」だってなんか人にラベルを貼ってるみたいな気もする。嫌だ。ただニコニコして、いっしょにご飯を食べていたら幸せなのになあ、と思う。

 

そうはいっても、「好き」「嫌い」はまだましだと思っている。「好き」という言葉は僕の一方的な片思いの告白にすぎないからだ。その言葉が暴力として作用することがあることもわかるのだが、あっちの気持ちをないがしろにはしていない。

 

だから、僕はたまに「友達」のところを「好きな人」に変えて話してみる。

 

「僕の好きな人に、Aさんって人がいて〜」

 

急に恋愛相談みたいなテイストになる。「好き」を人に向けてはいけないみたいだ。すぐ異性愛の話になる。ジェンダー論を振りかざすつもりはないが、面倒臭い世の中だ。

 

「友達」で関係性を規定すると、なんかその端緒にある、「僕はAさんのことをこれこれこういう感じで好きだ」「Aさんは僕のことをこういう感じで気に入って、付き合ってくれている」みたいなものが失われる。関係性から両方の視点が失われて、飛行機から僕たちを見下ろしたようなものになる。だから僕はあんまり「友達」って言葉が好きではない。

 

という理屈を述べた後で、後輩に答えるならば、「好きな人はたくさんいるよ」になる。答えてほしいこととずれているのは承知の上だけど。

 

 

タヒさんの詩はこの詩集に載っているものです。

死んでしまう系のぼくらに

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