なぞる

なんか書いたやつ

本を食べる先輩——村田沙耶香『私が食べた本』

 次の本についての感想です。

  村田沙耶香『私が食べた本』朝日新聞出版,2018.

私が食べた本

私が食べた本

 

 

 
 
 
 カバンを持たないで外に出るのが何となく手持ち無沙汰で嫌だったぼくは、白いトートバッグに一冊、文庫本を入れることが多かった。それは大抵もうとっくに読んだことのあるお気に入りの文章で、何度も何度も読み返したやつだった。駅前での待ち合わせに、わざと10分くらい早く到着して、その本を読み耽る。ほんの10分の間に、思いっきり集中して本を読んでみたかった。指で文章をなぞり、紙の匂いを嗅ぐと、改札の雑音は聞こえなくなり、興奮した自分の心臓の音ばかりが耳にはこだましてくる。静かに興奮しながら次のページをめくる、そんな時間が愛おしかった。
 
 
 友達なんてものは待ち合わせにだいたい間に合わないもので、少し遅れてきたそいつの「ごめん、遅れた」という声で我にかえり、ぼくは本から顔をあげる。その瞬間、小説と現実の世界が混ざり合うのではないか、なんてくだらない妄想をしていた。実際には、そんなことは起こらないので(当たり前だ)、がっかりしたぼくは、「何読んでたの?」と訊かれると少し拗ね、小説の背表紙に書かれたタイトルだけを友達に見せた。
 
 
 
 
 村田さんはご自身の本の読み方について、こう語る。
 

私の文章の読み方には二種類あり、一つは「ひたすら読み進む」という普通の読み方なのだが、もう一つは、「一節を何度も何度もいったりきたりしながら繰り返し味わい、頭の中で執拗に嘗めまわし続ける」という少し変質的な読み方で、同じ箇所ばかり何十回も読み返したり、場合によってはいろんな大きさでコピーして眺めてみたりしている様子は、傍からみれば気持ちが悪いだろうなあと思う。

 
 
 「頭の中で執拗に嘗めまわし続ける」というフレーズは、あまりにも刺激的すぎて、なんだかクラクラしてくるけれど、当意即妙な表現だと思う。ぼくも、あの10分間に、文章を嘗めまわしていた。文字を口に含み、その匂いを嗅いでいた。ぼくは本をいろんな大きさでコピーしたことはないけれど、本で顔を覆うようにしてうんと近くで文章を読んでみたり、逆に本を遠ざけて細目で読んでみたりしたことがある。だから、村田さんの二つ目の読み方に、ぼくはとても心当たりがあった。
 
 
 後者の読み方をする時に、ぼくは「大好きだ」と思った一節を人差し指でなぞる癖がある。人差し指はびっくりするくらい敏感になっていて、指でなぞるたびに心臓がバクバク音を立てる。その一節を脳に刻みたくて、ゆっくりと文字を指でスーッとなぞったあと、一度目を閉じ、頭の中で何度かそのことばを呟く。それはぼくにとって儀式のようなものだった。
 
 
 
 
 
 この書評集の中にもぼくが何度も指でなぞった文章がある。それは山田詠美さんの『学問』という小説の最後についている村田さんの解説で、『自分だけの「学問」のために』というタイトルが付いている。
 
 
 ぼくは山田詠美さんのファンで、よくカバンには『学問』や『ぼくは勉強ができない』を潜ませている。『学問』という小説もぼくが人差し指で何度もなぞったところがあるのだけど、それと同じくらいにぼくはこの解説が大好きで、何度も何度も繰り返し読んだ。小説の世界になんだか入れないときも、この解説文はやさしくて、ぼくは何度もこの文章に潜った。
 
 
 「わたし、まっとうして死にたい」
 心太の真似をして、私もそう呟く。私は何度も何度もこの言葉を食べたから、私の細胞の、血管の、どこかで、ちゃんとこの言葉が呼吸していると思う。
 
 
 そんな風に、村田さんは言う。ぼくもあなたのことばを何度も何度も食べたから、血管のどこかで繊細なことばが呼吸していると思う。少なくとも呼吸していることを信じている。
 
 
 
 
 
 ぼくにとって、「頭の中で執拗に嘗めまわし続ける」本の読み方は、とっても素敵なものだけど、なんだか見られるのが恥ずかしいものでもあった。ぼくは上品な本の食べ方を知らないから(そんなものはないのではないか、と今のところ思っているのだけど)、本をベロベロと嘗めまわしているところはあまり見られたいものではなかった。
 
 
 だから、ぼくは自分の本の読み方について、誰にも話さなかった。静かに没頭して本を読み、人差し指でなぞるぼくの行為は、プライベートな魔法だった。だから、村田さんが同じような読み方をしていると知ったとき、同志を見つけたような気持ちになった。自分が言語化できなかったその魔法の正体を教えてくれた先輩のようにも思った。
 
 
 これからも彼らの言葉を食べ続けていくことを、誇りたいと思う。
 
 
 ぼくはことばを食べることを誇りに思えなくなってしまう時がある。自分が選んで嘗めまわしている本が、本当に適切なものなのか自信がなくなってしまうのだ。もっと名の知れた古典を嘗め回さなければいけないんじゃないか、とか、嘗めまわしている暇なんてないんだからもっとたくさんの作品を読み進めないといけないんじゃないか、とかそんな気持ちが脳裏によぎる。
 
 
 あるいは、血管の中でぼくが食べてきたことばが呼吸していることすら、信じられなくなってしまう時がある。そうすると、今までできていた儀式が、集中力を欠いてできなくなってくる。指の感度は途端に落ち、目を閉じても頭には何も浮かばなくなる。しまいには、大好きな文章を読むとだんだん気持ち悪くなってきて、部屋の片付けをしたくて仕方なくなってくる。本を食べることから逃げたくなってしまうのだ。
 
 
 そんなときは、本棚までゆっくりと歩いて、この可愛らしい黄色の表紙の本を手に取ろうと思う。そこには、ぼくの先輩がいる。悩みながら、それでも、本を食べることを誇りに思っている先輩がいる。
 
 
 
 
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