なぞる

なんか書いたやつ

剽窃行為集合体

 レポートを書くときには剽窃してはいけない。大学1年生の授業で散々教わったことだ。「これは剽窃行為にあたります」の羅列みたいなパンフレットをもらい、「剽窃とは何か」みたいな話を大きな教室で50分くらい聞かされた。まあ、それは役にたったといえばたった。ぼくはその剽窃という画数の多い漢字が「ヒョウセツ」と読むことを知ったし、それは要はパクリと同じ意味だと言うことを学んだ。そして逆にいえばいくつかのルールに従えば「パクる」ことが許されるということを知り、レポートの最後に参考文献を載せておくと先生に「パクってなさそう」って思われそうだな、ってことや、wikipediaを参照すると評価が下がりそうだな、ってことを察した。
 
 
 「パクリ」を肯定するルールは「著作権法」という法律に基づくものだ。引用を行うためには、(1)元の文章を書いた人に「引用しますよ」と許可をとる(2)ただし、しっかりと出典を明記して、自分が書いたものではないということを示せばOK(3)あまりに多い引用は許されない、の3つの要素が基本的に重要なポイントだと理解している。
 
 
 これは基本的に学術目的の文書の場合の話だけれども、このような「剽窃」は日常行為のどのような場面でも倫理的に許されることではない。俺が話した面白い話を、誰かがさも自分が考えたかのように話しているとすごく腹が立つ。授業で聞いた話をさも自分が知っている話みたいに話してカッコつける奴は嫌われる。パクツイにぶら下がり「パクツイはいけません」とめっちゃ説教するアカウント群。日常生活のどこでも、「パクリ」は許されないし、嫌われている。
 
 
 でもぼくは、どこからが「パクリ」でどこまでが「パクリじゃない」かがよく分からなくなってしまうときがある。出典を明記しない引用行為をぼくはある意味で繰り返している。ある意味でぼくは剽窃行為集合体であり、オリジナルに生み出したことばなんて数少ないような気がする。
 
 
 ぼくの文章はサン=テグジュペリの『星の王子さま』、それも内藤濯訳に大きく影響を受けている部分がある。この文章でいうと、「まあ、それは役にたったといえばたった」からの部分は次の文章からの影響だろう。
 
 
 そこで、ぼくは、しかたなしに、別に職をえらんで、飛行機の操縦をおぼえました。そして、世界じゅうを、たいてい、どこも飛びあるきました。なるほど、地理は、たいそうぼくの役にたちました。ぼくは、ひと目で、中国とアリゾナ州の見分けがつきました。*1
 
 
 そもそもぼくの一人称「ぼく」がひらがななのも、『星の王子さま』の影響だ。その前まではぼくは「僕」という漢字を使っていた。これは村上春樹が好きだったからだ。今も「あるいは」という接続詞を村上春樹の影響でよく使う。
 
 
 文章だけじゃなくて、話しことばでもぼくはたくさんパクっている。「〜なんやが」という語尾はバドパの友達のものだし、「それな」は高校時代の友達のものだ。「そうなん」はクラスの子の言い方がかわいくて真似していたら身についたことばだし、「素敵な」という形容詞は父親がよく使う形容詞だ。恋愛の話で「どういう人がタイプ?」と聞かれたら「価値観が合う人」って言っているのも、友達がそういう言い回しをしていたからだ。結局ぼくが生み出したことばなんてほとんどない。*2
 
 
 それはおそらくみんなそうなのではないか。村上春樹自体もフィッツジェラルドという作家に影響を受けて文体を構築している。あるいは、「それな」ということば遣いもおそらくはその友達がオリジナルではない。「価値観が合う人」という答え方もその子独自の答えじゃないだろう。そうするとぼくの紡ぎ出すことばは「オリジナル」ではなくむしろ「n次創作」の「パッチワーク」だ*3。問題なのは2点。ことばを紡ぎ出しているときには意識できない/忘れてしまうこと、そして引用元を明示するとあまりにも引用の量が多くなってしまいコミュニケーションが妨げられることだ。
 
 
 そもそも人が言語を用いて考えごとをするときに、「このことばは誰のものか」という意識をすることは難しい。ぼくは『星の王子さま』のオマージュみたいな一節をパクリだということを意識せずに使ったし(そしてどこかにパクっている場所はないか、と批判的に見ようとしたときにわかったのだ)、前段落でまた「あるいは」を無意識に使ってしまっている。そして忘れてしまっている部分もたくさんある。ぼくのことばは多分色々な人のことばのパッチワークになっているのだけど、そのことばをいつ覚えて、いつ使うようになったのかの多くを忘れてしまっている。思い入れのあることばは大体あの頃に使い始めたな、と覚えているけれど、多くのことば、そしてそのコロケーションをどこで学んだのかは忘れてしまっている。
 
 
 また、引用元を明示するとコミュニケーションが妨げられる面というのは確かにある。百田尚樹が『日本国紀』に対する批判に対して「引用元をいちいち書いていたらきりがない」という旨の返答をしていたけれど、その是非はともかくとして、普段のことばで引用をいちいち明示していたらきりがない。例えばぼくはタイプを聞かれた時の「価値観の合う人」と答えるときに、「明らかにこれは引用だな」と意識しているけれど言うことはない。「友達に言われて、あっ、その答えいいなって思ったんだけど、価値観の合う人かな〜」とか長いからだ。「その情報いる?」って思われてしまう。According to 〇〇ばかりの文章は、書きことばとしては誠実かもしれないけれど、話しことばとしてはうざいだけだ。
 
 
 ある意味でぼくたちは剽窃行為集合体であり、だからこそその「パクリ」には「どこまでが許され、どこまでが許されないのか」のルールを設ける必要がある。それがおそらくアカデミック・マナーや著作権法といったものなのだろう。
 
 
 剽窃行為集合体が、剽窃行為集合体の文章を読んで、今日も関心したり、怒ったり、泣いたりしている。剽窃行為集合体が剽窃行為集合体に恋をし、失恋し、剽窃行為集合体がそれを慰める。変な生き物だなと剽窃行為集合体のぼくは思う。「人間って不思議だな」なんていうありきたりなフレーズで。
 
 
 
 
 
 
 

*1:サン=テグジュペリ内藤濯訳『星の王子さま』,岩波書店,1953

*2:このような文章の着想は村田沙耶香コンビニ人間』から強い影響を受けている

*3:普通ならこういうときに面倒なので言わないのだけど、こういう考え方はポストモダニズム的な考え方というもので、ぼくのオリジナルの考え方ではない。ぼくは多分こういう感覚を東浩紀動物化するポストモダン』で学んだ