なぞる

なんか書いたやつ

やさしいことば

 先生が何を言っているかわからない時がある。「アンシャン・レジーム」がどうたら、「マックス・ウェーバー」がどうたら、「ブレグジット」がどうたら。きっと何か面白いことを言っているのだろうが、聞いているこちらはちんぷんかんぷん。「みなさんご存知のように」だって?いや知らねえよ。ぼくらの教養がないことを皮肉りたいのか?カタカナ語を元の言語の発音でわざとらしく流暢に話す先生。絶対にカッコつけたいだけだろ。
 
 
 難しいことばを使う先生に出会うと、こんな意地悪な想像が浮かんでくる。「実はこいつは自分の言っていることばの意味がわかっていないんじゃないか?」「カッコつけたいから難しいことばを使っているだけで、実は大したこと言っていないんじゃないか?」それこそ、アラン・ソーカルの数学の用語を適当に散りばめた論文が雑誌に載ってしまったように(アラン・ソーカルを例に出すこと自体がカッコつけみたいだけど)、ぼくたちは権威ある人がカッコよく言った内容を盲信してしまうことがある。だから、もしかしたらそれを利用してこの先生は口から出まかせを言っているかもしれない。ここまで言ってしまうと、想像というより妄想だけど。
 
 
 こんな想像ないし妄想をするのは、理解できないのを自分の不勉強のせいじゃなくて先生のせいにしたいからだけど、それだけじゃなくて、ぼくには心当たりがあるからだ。難しいことばを散りばめてカッコつけて喋ってしまったこと。その難しいことばの意味なんて一つも知らなくて、「げんちゃんって物知りだね」という評価だけが欲しかった幼い頃。「えっ、〇〇ってなんのこと?」と聞かれて、答えられなかったこと。
 
 
 山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』*1に出てくる、植草くんはこんな人だ。
 
 
 植草は、ぼくと同様、学校の成績は良くなかったが、物知りだという評判だった。と言うのも、日常の言葉の中に、ぼくたちの知らない単語を混ぜて、相手をけむに巻くのが得意だったからだ。意味を尋ねようものなら、彼は片頬を歪めて笑い、首を横に振るだけだった。
 
 
 ぼくは、植草くんほどあからさまに物知りを気取ったことはないけれど、それでもやはりこの描写には心当たりがある。みなさんもどこかで心当たりがあるのではないだろうか。
 
 
 
 
 自分一人でものを考えるとき、ぼくはうんと難しいことばを使ったり、自分の造語を使ったりすることがある。そうするとなんだか新しいことが言えた気になる。有名な学者が言っていたことを、パッチワークのように繋ぎ合わせれば、なんだかそれっぽい意見がまとまる。それを「自分の意見」として提出してしまえば、なんだか体裁のいいレポートとして受理されるだろう。

 

 実はそれは難しいことではない。というのは、その作業は、現代文の要約みたいなものだからだ。内容を理解していなくても、文章の構造と「ここが肝だな」みたいなことが解ってしまえば、要約はできる。できるというか、少なくとも受験で点数が取れる要約は完成する。
 
 
 難しいことばのパッチワークを作ることは快感だ。なぜならば、大した労力をかけずに大きなことを言えてしまうからだ。あるいは、カッコいいことを言えてしまうからだ。それはもちろん誰にも理解できない文章だ。そりゃそうだ、本人だって理解していないのだから!
 
 
 
 
 そうは言っても、難しいことばのパッチワークを作ることに慣れたぼくが、やさしいことばで文章を編むのは容易ではない。文を編んでいくときに、サジェスト機能のように脳に浮かぶことばが、硬く、カッコつけた、自分でも理解していないことばばかりになっているからだ。スマホならば、サジェスト機能を初期化すれば良いけれど、そうはいかない。太くなったシナプスは、そう簡単に元に戻らない。
 
 
 このブログはそういう意味で役に立っている。サジェスト機能に逆らいつつ、できる限りわかりやすく、簡単なエッセイを書き綴る。そうすると、難しい概念を使わなくてもものを考えることができることに気づく。もちろん複雑な議論ではないかもしれない。文字数あたりの情報量が薄い、冗長な文章かもしれない。だけどある程度のことは言える。やさしいことばだけでも、自分の文章を編むことができる。自分の理解していることばだけで文を作っていくことは、乗り物に乗らずに一歩一歩自分の足で歩くようなものだ。飛行機に乗る妄想をしても仕方がない。ぼくはあきらめて、履き慣れたスニーカーで歩くことにした。
 
 
 
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*1:山田詠美『ぼくは勉強ができない』,新潮社,1996. pp32-33