なぞる

なんか書いたやつ

想像力のないぼくは夢を見る

 母に何度も「相手の立場に立って考えてみなさい」としつけられた。ぼくはひどいことをたくさん言ってしまう子どもだった。それはきっと悪意からくるものではなかった。周りの人たちのことばを真似しているうちに、そうなってしまったのだと思う。
 
 ぼくたちがことばや論理を学ぶのは、常に真似っこから来ている。ぼくは国旗の絵本やオウム真理教の本を小さい頃に読んだ。だから、小学校1年生の時にぼくは、アンティグア・バーブーダの国旗を知っていたし、オウム真理教関連で死刑を宣告された犯罪者の名前は全部言うことができた。でも、「人の心がどれだけ傷つきやすいのか」なんてひとつも知らなかった。
 
 優しいことばばかりが行き交っていた幼稚園とは異なり、小学校は人を傷つけることばばかりが飛び交っている戦場だった。「ばか」「死ね」そんなことばをたくさん聞いた。ぼくは学校ではそういうことばを上手に使えなかったけれど、家に帰ると復習するかのようにそんなことばを吐いた。自分が明らかに悪いのに、親に説教されたり少し手をあげられたりすると「いーけないんだ、いけないんだ」と囃した。
 
 そんなぼくに母は「相手の立場に立って考えてみる」ことをやさしく何度も何度も諭してくれた。ねえげんちゃん、もし自分がバカって言われたら良い気持ちしないよね?だからそういうことばは使わないほうがいいよ。
 
 
 
 相手の立場に立って考える。それはとても大切だと思うし、小さい時はその道徳規範はすごく有効だった。自分が傷つくことばは相手には言ってはならない。だけど、ぼくは大きくなるにつれて、その道徳を実践することがとんでもなく難しいことを知った。
 
 相手の立場を想像すること自体がとても難しいのだ。出自、人間関係、性別、思想、宗教、生育環境、言語、置かれている境遇…誰一人同じ人間などいない。相手が似た境遇ならばともかく、自分が体験したこともない境遇について想像することは本当に難しい。
 
 女性特有の生きていくことのしんどさや、在日外国人のしんどさはぼくにはわからない。わからないから、わかりたいと思うのだけど、何をしても属性特有の問題、そしてそこに関係している差別の問題を自分は経験できない。女性の立場に立つこと、外国人の立場に立つことを心がけたとしても、絶対にその痛みを等価に想像することはできない。
 
 
 
 
 
 周りが同じような人間ばかりだと、差別的な感覚は、批判されないまま増長されることがある。
 
 ぼくは中学校3年生のときに、すごく優秀な進学校編入した。そこは、「東大はすごい」「〇〇大以下はゴミ」みたいなひどい言説が飛び交う場所だった。生徒だけでなく、先生もときにそう言ったことば遣いをした。ぼくはすごく傷ついた。彼らが「Fラン」とみなす大学に「入りたい」と言って一生懸命勉強する友人がいたからだ。彼らはきっとそういう人たちの顔を知らない。あるいは知っているけれど、その顔には目を閉ざしている。
 
 同質的な環境では、会話の相手を想像することはできても、その場所にいない「他者」を想像することができなくなってしまうことがある。飲み会で他者を平気で「ガイジ」「アスペ」とののしる人たちは、そこに本当の彼らがいないことを想定して揶揄している。男子だけの飲み会では女子の顔をきついことばで品評する。おそらく女子会もそうだ。
 
 
 
 
 相手の立場に立って考えることはすごく難しい。それは、想像力が行き届かないという問題もあるけれど、相手の痛みを強く想像しすぎてしまうという問題も孕んでいる。
 
 山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』*1で、主人公の時田秀美は貧乏な赤間さんの家を目の当たりにして、「ごめんね」と声をかける。そのとき赤間さんはこう答える。
 
 「あのさあ。私は、時田くんのそういうとこがやなんだよ。うちが貧乏なのは仕様がないでしょ。私のせいじゃないんだし。頭来ちゃうよ、あんたのそういう態度。(中略)私、可哀相と思われるのやなの。そうされると悲しくなるの」
 
 ぼくはこの一節を読むとすごく胸が苦しくなる。ぼくには秀美の気持ちも赤間さんの気持ちもわかるからだ。可哀相だと思う気持ちもわかるし、それに対して頭に来る気持ちもわかる。「可哀相」ということばは相手の気持ちに寄り添っている面もあるけれど、相手を少し見下している部分もある。「あんな境遇に立たされていて可哀相だ」と相手の立場に立って考えることが、相手を苦しめることもある。真に相手の立場に立ったならばもしかしたら適切に相手に寄り添うことができるのかもしれない。だけど、想像力が不十分なぼくにはそんなことはできない。苦しい立場に立つ人を想像することは、必ず過剰になったり、あるいは過小なものになってしまう。
 
 
 
 
 相手の立場に立って考えてはならないことがあるのかもしれない。例えば、殺人事件があったときに、ぼくたちは被害者だけでなく加害者の側に立って考えることがある。加害者はこういった生育環境で、このような境遇だった…、そういったことを想像すると、ぼくももしかしたら加害者になっていたかもしれない、なんてことを考えてしまう。加害者のことを理解できてしまうような気がするのだ。
 
 「加害者自体ではなく、その外側にある社会的な要因が問題なのではないか」といった発想は、社会学においては繰り返されてきた。オウム真理教事件の犯人たち、秋葉原通り魔事件の加藤、相模原障害者施設殺傷事件の植松…。そういった人々の犯行動機を、「彼らは狂人だから」と無視するのではなく、社会的な構造に理由を求める営みがある。学者やメディアは文章の力で、「確かにそういう状況なら仕方ないかもしれない」とぼくたちを納得させてしまう。
 
 それは恐ろしいことでもある。彼らの心情に寄り添って考えることで見えてくることももちろんある。だけど、そうすると殺人を犯した彼ら自身の要因を軽視してしまう部分が生まれる。「社会にのみ問題がある」と言ってしまうと、彼らの犯した罪のアクチュアリティは失われる。そうした想像力は被害者を傷つけてしまいかねない。
 
 
 
 
 想像力は暴力だ。あるいは、想像力を通じて発せられたことばは暴力だ。なぜならば、ある種の意味では、相手の立場に立つということは絶対にできないことだからだ。ぼくと属性がほとんど同じ人がいたとしても、ぼくと彼は違う人間な以上、彼の気持ちを完全に推し量ることはできない。国語の問題ならば、傍線部のAさんの心情を答えることは可能かもしれない。でも実際にはそんなことはできない。こういった意味において、相手の立場に立ってものを語るということは暴力でしかない。
 
 ことばは暴力だ。分節し得ない世界を分節することは、必ず誰かを傷つけうる。どんなに誰も傷つけない表現を目指しても、どこかに誰かにとってのとげが潜んでいる。*2
 
 だけどそうした暴力的な想像力が、暴力的なことばが誰かを癒すことがある。何かを考えさせることがある。誰かを喜ばせることや、安心させることや、モヤモヤを晴れさせることがある。
 
 
 
 
 姫野カオルコさんの『彼女は頭が悪いから』を読んだ。*3あの本を読まずに「東大バッシングだ」なんて語るのはやめてほしい。確かにあそこには東大生に対するステレオタイプが反映されているかもしれない。そのティピカルな東大生が犯罪を犯す物語を読むことは、きっと多くの東大生にとって居心地の悪いものなのだろう。「東大が貶されている以外に成功していない」なんて強烈な書評がブックトークでは紹介された。
 
 ぼくがここで記述してきた通り、想像力はある意味で暴力なので、自身の属性をステレオタイプに描かれると傷つくという気持ちもわかる。一方であの物語が語る多くのメッセージはとても考えさせられるものである。学歴社会を過剰に肯定し、自分より低い学歴の人間を見下していなかったか?男子だけの飲み会で女子の顔を品評したり、女子会で男子を品評したりしたことはなかったのか?強く自省させられる。
 
 「女流作家」ということばがある。本当は「作家」と言えばいいところを「女流作家」と言うことで「あなたたちは例外なのだ」といった印象を与えることばだ。徴を持たないデフォルトな人間ではなく、特殊な存在として見ることば。「大学生」として語ればいいところを「東大生」として特殊な存在とラベルづけられ、有徴な存在にされることは居心地が悪いものだろう。*4
 
 だけど、僕たちは有徴な存在に対してしか想像ができない。少なくとも想像力に乏しいぼくはそうだ。「貧しい人」は「可哀相」だし、「境遇の苦しい殺人鬼」は「理解できてしまうかも」といったように。その裏返しとして「金持ち」は「全然可哀相じゃない」という価値判断も入ってくるかもしれない。差別に対する想像力とは有徴なるものに対する想像力に他ならない。
 
 
 
 
 ブックトーク小島慶子さんは、「加害者の気持ちと被害者の気持ちがどちらもわかって引き裂かれる思いをした」という趣旨のことを言っていた。ぼくもこれに極めて近い思いをした。加害者・つばさくんの人を学歴や容姿で品評するまなざしにも、被害者・美咲ちゃんの恋愛にうぶな感じにもどちらにも心当たりがあった。それに加えて、ぼくは「この人の気持ちがわかっていいんだろうか」という引き裂かれ方もした。はっきり言って、すぐに傷つくナイーブなぼくは、平板な感情を持つつばさくんと全く似ていない。なのに、「わかってしまう」ことはある意味では彼のした犯罪のアクチュアリティを消してしまう部分がある気がした。
 
 それでも、ぼくは彼の気持ちがひしひしとわかってしまうのである。自分にも、「東大生」という徴をひけらかしてちやほやされたいみたいな気持ちがどこかにあるような気がしてしまうのだ。その帰結として、姫野さんがいうところの「東大ではない人間を馬鹿にしたい欲」をぼくも持ってしまう気がするのだ。
 
 「東大生」というステレオタイプから逃れたいのならば、東大をやめるか、「東大」という徴を利用することをやめるか、「東大」という徴を違う意味に変えるしかない。「東大」という徴を利用して就活なり恋愛市場なり*5での有利さを謳歌するならば、ぼくたちは有徴の痛みに耐えなければならない。自分の痛みに溺れてしまうと、ぼくたちは他者の痛みを想像することができない。
 
 想像することは暴力だ。想像することは誰かを傷つける。差別に対しての想像力は、誰かを有徴化せざるを得ないから、結果として誰かを傷つけることになるだろう。だけど、ぼくは想像しないよりも、想像をきちんとすることの方が重要だと思う。相手の立場に立ってものを考えなければ、ぼくはまた誰かのことばをただ真似っこする機械になってしまう。ぼくは機械にはなりたくない。人の痛みを、喜びを、やさしさを、理解したい。もしかしたら間違っている理解かもしれない。ぼくはそれでも夢を見る。いつか誰かの気持ちに寄り添ってものを考えることができる日を。
 
 

*1:山田詠美『ぼくは勉強ができない』,新潮社,1996

*2:別記事「ことばの暴力」参照

*3:姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』文藝春秋,2018

*4:「有徴化」に関する議論は、ここから学んだものだ

男たちはなぜ「上から目線の説教癖」を指摘されるとうろたえるのか(北村 紗衣) | 現代新書 | 講談社(1/4)

*5:恋愛では東大は有利でない、と思われるかもしれない。だけど、少なくともインカレで「東大男子」と「他大女子」という組み合わせで行うこと自体が「東大」あるいは「東大男子」を徴として利用している面があることは、否定できないだろう。