なぞる

なんか書いたやつ

玉ねぎ

 無機質なカフェのなかで、友だちと話をしているときに、ふと友だちがひとつのシステムに見えてきて、それを大切に思った。友だちの顔や目つきや着こなしを、それはそれで愛おしく思うけれど、わたしと友だちのあいだに丸いテーブルがあり、そこでなされる会話によって少し安心できる空間が切り拓かれ、わたしの発話を、おそらくは友だちの発話を助けることが、とても美しく見えた。わたしはロバート・マートンニクラス・ルーマンに思いを馳せた。それは彼らのシステム理論の難しさや分厚さというよりも、なにか身体や身体の集まりや都市やそういったものを、物質そのものとしてではなく、なにかからなにかへの働きとして見ようとしたまなざしに共感するからだ。そこに信仰や美学を感じ取ることは難しくない。機能の集合として何か立ち現れるその構造、あるいは構造から新しく導きうる機能、その関係性について語りたい欲望のことが、よくわかる。

 


 わたしや友人、すなわち個人というものをじっと見ていると、玉ねぎのようなイメージが重なって見える。わたしを包むカフェや都市や家族や国家や経済やその他組織は、簡単に階層的に切り分けられないものがあるとしても、玉ねぎのように概念上は見える。わたしを考えることがカフェを、都市を、会社を考えることになるときに、玉ねぎめいた世界に直面することになる。

 


 玉ねぎの話をしたかった。それはわたしにとっては近い比喩で、多くの人にとっては遠い比喩だと思えた。わたしは友だちとその比喩の距離のことを考え、説明にかかる時間がどれくらいかかるかを考えた。しかしわたしの内部でなされた計算や思考は、発話としてテーブルの周囲の空間に発散されることはなかった。

 


 文章というものが、わたしにとってとりわけ安心なスペースでよかったと思う。わたしがわたしに、誰かに宛てた言葉を、書くことができる、この形式は、わたしを安心させる。わたしは飲み会の多くが好きでない。わたしは飲み会で安心できないことが多い。しかし、多くの人が安心できるスペースであることを願う。システムであることを願う。