なぞる

なんか書いたやつ

ゼミのあとで

 大学時代、障害のある人を呼んで、ライフストーリーを語ってもらうというゼミにいた。普段遭遇しない身体を持つひとの語りを聞くことは、とても新鮮だった。ゼミのあとは、懇親会で意見を語り合うことができた。好奇心が満たされ、居心地が良かったから、ぼくはおそらくそのゼミにいた。
 
 
 人間の身体は、あるいは人生とは、とても複雑なものだ。複雑性を減らすことで、身体についての、人生についての語りが成立する。そしてぼくらは、zipファイルを展開するように、その語りがいかに複雑性を縮減したのかを想像し、語りから身体や人生を復元する。
 
 ぼくは感受性が強く、毎回さまざまなことを思った。取り止めもなく、まとまりもしない言葉たちを、リアクションペーパーに書き出す瞬間に、それまで身体の底に澱のように溜まっていた感情が、形になって溢れた。
 
 ゼミのあとの懇親会で、学生同士で議論しながらしていたことは、特定の問題解決を促すものではなかった。ぼくらがしていたことは、それぞれが復元した身体や人生を自分のことばで語り直し、その語り直し方から、相手の学生の考え方を理解しようとすることだ。感想はときにその学生の人生と結びつき、さらなる感情の動きを生み出した。
 
 あれは何だったのだろう、と思う。
 
 
 難病の患者さんの介助者(ケアスタッフ)をアルバイトでしたのも、そのゼミの縁だった。仕事をしながら感じたのは、仕事をする上ではそのような強い感情も、身体や人生を想像することも、ほとんど役に立たないことだ。相手の身体を想像して感情を発生させていては、仕事を継続的に行うことはできない。重要なのは、患者さんの生活がどのようにすればより良いものになるのかを考えることや、日々の仕事の習得であって、そこには感情は要らない。さらに、相手が言ってもいないことを勝手に想像すると、大きなミスにつながる。
 
 しかし、深いところで患者さんを支えることに喜びや善を感じなければ、そもそも仕事を始めることができないし、継続的な支援も難しい。
 
 ゼミが障害者支援に果たしていた役割は、根本にあるポジティブな感覚の養成だった。障害のある人とともに生きること、社会参加を支えることが、望まれるべきものであるという感覚は、あのゼミで手に入れたものだ。
 
 
 何かをなすときに、表面的な感情の反応はあまり役に立たない。合理的な思考を奪い、問題解決を難しくする。人間関係を安定させるのにコストがかかってしまう。だけど一方で、深いところに感情の水脈を作れば、問題に対して継続的に向き合うことができる。その水脈をゼミは作ってくれたと思う。
 
 水脈を一度手に入れたゼミ生はみんなそれぞれのタイミングでゼミを離れる。実際的な問題解決のヒントは、感情の溢れる場所ではなかなか手に入らない。水浸しになった自分の身体を乾かしたあとで、ぼくはそこで出会った人びとからの負債を返すことになるだろう。

両成敗の哲学

 両成敗とは、「勝ちも負けもない」ことでは決してない。両成敗が指し示すもの、それは両者ともに負けるという事態だ。

 既存の二項対立にどのように対応するか、たとえば「勝ち組は負け組に勝っている」という命題をどう崩すか。
 放っておくと、「勝ち組」という語はポジティブなものとして固定されてしまう。だからぼくらはそれを揺るがすためにいくつかのレトリックで対抗する。
 
 

 ①ひっくり返す

 「負けるが勝ち」「負け組は勝ち組に勝っている」
 
 ひっくり返す戦略は、ネガティブなものをポジティブに定位し、ポジティブなものをネガティブに反転させる。
 しかしこれは、新たな二項対立を生むだけだとも言える。
 
 

 ②あいだを提示する

 「引き分けは?」
 あいだを提示する戦略は、ポジティブなものとネガティブなものの区別が機能しない場所を提示することで、その二項対立の有効性に疑義を唱える。
 しかしこれは、二項対立の機能する対象を減らすだけで、存在そのものを疑うには至っていない。
 
 

 ③疑う

 「勝ち負けなんてない」
 疑う戦略は、ポジティブなものとネガティブなものの区別を疑うことによって、二項対立の成立自体に異議申し立てをする。
 これは極めて有効な一方、二項対立そのものが消えてしまう。すなわち、「勝ち負けがない」ならば「勝ち」も「負け」も分析できない。
 

 そのどれでもない両成敗

 それらとは異なる戦略として両成敗があるのではないか。両成敗を定式化するとこうだ。
 「勝ち組も負け組も負けである」
 二項対立を両方ネガティブなものとして表すならば、当然もう一つの項が出現することになるだろう。すなわちここで問われるのは、
 「勝ち組と負け組は何に負けているのか」
 「何が、勝ち組と負け組に勝つのか」
 である。
 
 その答えは歴史的に考えると容易であり、それは権威や法、すなわち喧嘩両成敗を定めた権威や、喧嘩両成敗そのものが、喧嘩をしている両者より優位だとわかる。
 ここまででわかるように、喧嘩両成敗という操作は、ある二項対立を両方とも劣位に置くことで、その操作そのものを優位とすることである。
 

 なぜ両成敗は止まらないのか

 ここでゲスの極み乙女。の『両成敗でいいじゃない』について考えてみよう。本稿が最後に考えたいのは、「なぜ両成敗は止まらないのか」である。
 
 単純に考えれば、両成敗は他の操作に比べ止まってしまう操作である。二項対立を反転させる操作は無限に繰り返しうる(というかこれが喧嘩である)し、例外や線引きについて考えるのは定義の問題なので繰り返しうる。
 一方で両成敗は、一度その操作をしたら終わってしまう。このことは、喧嘩を止める手段として両成敗があることからもイメージしやすい。
 ここで重要なのは、二項対立を疑い無化する戦略と、両成敗がどう違うか、である。両者はともに、ひとつの操作でその二項対立の文脈から離れることに成功している。決定的に異なるのは、前者はその二項対立に戻れない一方で、後者は二項対立を保存していることである。
 
 「両成敗は、勝ち組と負け組に勝っている」
 と述べたとき、勝ち組と負け組という二項対立はいまだ存在している。トーナメントを考えてもらえばわかりやすい。つまり、
 「AチームはBチームとCチームの勝者に勝った」
 という表現は、BチームとCチームの勝敗を重視してはいないが、そこに対立があったというステータスは残るのだ。
 
 両成敗は、ある二項対立を保存しながら、それらを劣位に置くことによって、文脈を「両成敗は喧嘩より良い」というものにずらすことだと言える。二項対立が保存されるからこそ、ぼくらは元の二項対立を何度でもやり直すことができる。だから、両成敗は止まらない。この歌で賭けられているものは、戦いをやめることではなく、中断することの価値だと、ぼくは思う。
 

飲み会について

むかし、飲み会とは行為から意味が剥がれ落ちる場であり、そこに美しさがあると書いたことがある。ぼくはお酒が飲めなくて、それでもこの文化に肯定的な意味を見出したくて、書いた文章だったのだろうと思う。
 
 
酔っ払いの言葉に過剰な意味を読み取ることは、あまり有益ではないと直感的に思う。たとえば、お酒に酔っ払った異性に、「〇〇さんのことが好きです〜」とか言われたとしても、それを真に受けることは間違っている。この「間違っている」という認識そのものが、ぼくたちの〈飲み会〉を成立させているのではないか、と思う。
 
 
つまり、飲み会の参加者は、お酒に酔うことで、あるいはその場にいることによって、自分の発言の信用を敢えて落とし、責任を免れている。そのことが、発言や行為とその意味の強い結びつきを緩めている。
 
 
もっと言うならば、その認識をぼくらは共有しており、だからこそ普段言いにくいことをひとは飲み会で語る。自分の発言に責任を過剰に持つことなく、話すことができる場。間違った表現でも、流れていく場として活用されているのではないか。
 
 
自分の発言に責任を過剰に持つことなく、話すことができる場。飲み会では、ことばの所有権や管理感覚をいつもよりも失っているという感覚がある。
 
飲み会にいると、ことばが浮いているという感覚に陥ることがある。それぞれの人々の発言が宙に浮いている。誰が発したのかもわからないことばが、誰に受け取られることなく、テーブルの上を雲のように流れ、いつの間にか空気に溶けてゆく。ぼくはぼんやりとそれを見ている。
 
暴走族が集団で同じように走行するのは、仲間の走る姿に自分を見ることによって、鏡のような空間を作り出し、ある種のゾーンに入るためだと読んだことがあるが、飲み会も自分と同じようにみんな飲み、酔っ払っているという感覚を視覚的に得ているように思う。
 
大人数で飲めば飲むほど、友達ひとりひとりの間に存在している違いは無視され、「みんなで飲んだ」という感覚になっていく。雰囲気の共有こそが重要なのだ。同じ経験を友達としたという感覚が、残ること。その履歴が重要なのだ。
 
 
 
 
飲み会は小さな旅である。ともにどこかの居酒屋で時間を過ごし、酔っぱらうという同じ経験をする。その場のノリがどのようになるかはわからない。飲み会に行く前の軽い憂鬱。それはコントロール不能なノリに身を任せることへの不安のことである。
 
 
飲み会に目的地はない。浮かんでいる言葉や行為の集合に、ノリに、身体を引っ張られて、ぼくらは動く。何かを達成するためではなくて、その空気にそれぞれが踊らされていることこそが、飲み会という現象を考える上では重要である。
 
 
そして、それは聖なる経験ではないか。うつくしい経験ではないか。自分の意思ではなく、誰かの意思でもなく、その場に流れる何かが、ぼくらを動かすという感覚に、ぼくは聖なるものを感じる。
 
 
あのとき、ぼくは確かにきみと握手をして、「今まで本当にありがとう」と言った。それは確かにぼくの意思で、それは確かに飲み会という場がそうさせたのだった。それはぼくのことばであると同時に、ぼくの外側からやってきたことばであった。二度と再現できない経験の履歴がお互いの身体に残ることを、ぼくは本当にゆたかだと思う。
 

第三滑走路13号 感想

 ボリュームがまずすごいですよね、全部で175首読める。だいたい歌集1冊で300首前後だと思うので、歌集半分を読んだくらいの(量的な)満足感をネットプリントで得られていると考えると、すごいことだなあと思う。
 
 連作としても工夫されているのだけどわりと一首単位で鑑賞できそうな歌が多いので、好きな歌・気になった歌の感想を述べたい。
 
 
 スティル・ライフ あと何回の乗り換えで地下鉄はこわくなくなるだろう/青松輝「still life」
 
 地下鉄は乗り換えにおいてのみ姿を現す…というと言い過ぎだが、基本的に地下鉄は地上を走らないので、地下のホームで見ることになる。そういう地下鉄におけるモチーフがさらっと指摘されつつ、重要なのは、乗り換えの場面においてぼくらはは地下鉄の「止まる」姿と「動く」姿を繰り返し見ているということだと思う。止まった姿の一回性(=静物性)と、それが動き出すという反復性(=まだ・生活)が「スティル・ライフ」という語によって受けられている、と見ることができる。
 
 サンキスト・オレンジ 電車を僕はたんに移動手段だと思っている/青松輝「still life」
 
 前掲歌の韻律構造をひきづる形で、5音でナカグロで切れる構造を有しつつ、初句9音的に読みたくなる。するとなんとなくこんな感じのリズムを捉えることができる。
 
 サンキスト・オレンジ / 電車を僕は / たんに移動手段だと / 思っている
 
 この韻律に自分がたどり着くのは、意味的な要請が大きくて、「たんに」というところに強意のニュアンスが読み取れるので、そこの文頭を強く読みたくなるからだと思う。
 それはそれとして、電車における様々な詩情を排して、「たんに移動手段」と定義することによって逆に詩として成り立たせてしまうことの鮮やかさがすごい。移動手段という冷たい言い方が、電車の詩情を逆に強めるというか、ある場所からある場所へと(はやく、とおくに)「僕」が移動する経験のゆたかさを引き連れているのがおしゃれだなあと思う。
 
 HOTELあさひ 海岸沿いの居酒屋うみ 仲良しの同日取り壊し/丸田洋渡「顛末」
 
 名付けに関する歌なんだろうと思っていて、朝日とか海とかそういう詩情を含む言葉がホテルや居酒屋の名前に選択されることをどう思うのかが、短歌の上に置かれることでちゃんと考えなきゃいけない気になる、みたいな効果があると思う。多分看板に書かれたその文字を見ても、ぼくらはなんの感慨も抱かないわけだけど、よく考えるとその建物と場所と名前と意味が一度にくっついた何かを感受しているはずで、その接着剤のような「言葉」について思いを馳せる、ことができる。「仲良し」という関係性自体が、建物に名前をつけるようなものであることが示唆されつつ、誰かと街を歩いた記憶が歌の中に刻み込まれている感じが郷愁を誘う。
 
 半分は狂う・半分は瞬く・星の話なんてしてないよ/森慎太郎「スルースキル」
 
 主題がわからないと、どうしてもなぞなぞのようになってしまって、歌の読み味がスッとしないことが多いのだが、こう書かれると、主題なんてなんでもいいやという気持ちになってくるというか、何の話をしているかわからないのだけど、そこに想像力が行かないような作りになっていて、会話的な面白さがあると思う。話し言葉を短歌に乗せると、話し言葉を文字にすると面白いみたいな回路が生まれがちなんだけど、それを巧みに回避していて、純粋に会話をしているときの耳の感じで、短歌を楽しめることがうれしい。
 この歌を読むときに脳で起こっていることをどう表現したらいいかわからないのだけど、会話内の微妙な空隙(=不明点)がクイズのように見えてしまう瞬間に、その空隙が思っていた答えとは異なることがわかるが、トピックが別のものに移っていってしまう感じがして、こういうことってあるよなあみたいな納得をすごく高い次元で起こされているのだと思う。
 
 するとどうだ、きのうの夜が破かれた絵画のように聴こえてこないか/森慎太郎「スルースキル」
 
 「するとどうだ、〜か」という構成が短歌に入れられることによって、言い回しそのものの面白さが見えてくるというのが読みどころなのだと思う。何が起こったのかは明示されないのだけど、これもなんか、内容が詩のことばで書かれている感じがするからか、そこに想像力がいかないという技を使っていて、想像力を拡散させないことによって詩を成り立たせる、みたいなところが、独特の読み味につながっていると思う。まさにこの2首は「スルースキル」が作者にも読者にも活用されている。
 
 
 「Ephemerality」については詳しく触れる余裕がないのだけど(疲れてきたので)、一首だけ引用すると、
 
 Downers 青空系の音楽のひっきりなしの転調を 聞け/丸田洋渡「Ephemerality」
 
 はすごく良いなと思って、英単語を短歌に導入する作品が丸田さんの最近の作品では多いように感じていて、意味体系としても発音体系としても異なるものを乗せるのは難しいだろうと思うのだけど、[dau:nahz]みたいな発音の[dau] にアクセントが来るので、普通の初句切れよりすごく切れ方が激しくなるのが面白いと思う。[z]の子音だけの音から「あ」の音に戻すのがすごく大変な感じ、これだけですごく特殊な韻律のあり方を作っていると思う。
 最後の「転調を 聞け」は逆に、一字開けしようとするとどうしても口がすぐに「聞け」と言ってしまうようなリズムになっていて、複雑なことをしなくても、リズムをこうやって動かせることが面白い。だからこそ、「ひっきりなしの転調」なのだと思うし、聞くべきものも、メロディではなくて、転調そのものに転位されている。
 
 
 三人とも決してオーソドックスな歌の作りではないので、まだ深く読めていない歌が多いのですが、すごく刺激を受けました。ありがとうございました!

佐藤佐太郎「寒房」鑑賞(歌集『歩道』より)

図書館で佐藤佐太郎集を借りて、読んでいる。写実的な歌の精度が高く、写実的なことを短歌でやることの凄さを改めて感じている。
 
ぼくにとって、写実的な歌を読むという体験は、現実に存在する素材のゆたかさに気づくという体験というよりも、むしろ、現実に存在する風景がこのような形式で言いうるのか、という言語的な気づきの体験としての比重が大きい。いわゆる「気づきの歌」が現実に対する解釈のあり方に魅力があるとするならば、写実的とされる歌は、現実を言語に落とし込むときに生まれる美しさに魅力がある。その魅力には、短歌という詩型が大きく寄与しているのだろう。これまでに見てきたものをこれまでにはあり得なかったかたちで表現するというあり方において、写実的な歌はそうでない歌と変わらないばかりか、より挑戦的なことをしているとさえ言える。その言語の形式の水準で新しさや美しさを読者に感得させなければならないからである。
 
第二歌集(出版されたのは最初の歌集)『歩道』より最初の連作である「寒房」を見てみよう。
 
 
寒房
 
敷きしままの床(とこ)かたづくるもまれにして家に居るけふは畳(たたみ)つめたし
 
街空(まちぞら)にひくくなりける月光(つきかげ)は家間(いへあひ)の路地(ろぢ)にしばし照りたる
 
いましがた水撒(ま)かれたる巷(ちまた)には昼ちかづきし冬日(ふゆひ)照りをり
 
(かたむ)きし畳の上にねむり馴(な)れなほうとましき夜半(よは)にゐたりき
 
 
敷きしままの床(とこ)かたづくるもまれにして家に居るけふは畳(たたみ)つめたし
 
敷いたままの布団を片付けるのがまれなほど、家に居ることのない主体が、畳のつめたさに思いを馳せる。布団の敷いていない和室は、思ったよりも寒かった。眠る場所でも食べる場所でもなく、ただ居る場所として姿を見せる「家」や「部屋」というモチーフの、空っぽな感じが際立っている。
 
「家に居るけふは/畳つめたし」という定型的韻律と、「家に居る/けふは畳つめたし」という動作で切れる形の韻律の二つがさりげないかたちで並存しているところも良くて、意味的には前者の韻律を捉えると論理的な感じがするのだが、後者における「居る」ことにフォーカスが当たっている感じもまたよい。
 
街空(まちぞら)にひくくなりける月光(つきかげ)は家間(いへあひ)の路地(ろぢ)にしばし照りたる
 
街空や家間という語彙による圧縮が素晴らしい。何か熟語を作り出すことによって、短い詩型に景を落とし込むというやり方のようだが、語彙の選び方が絶妙だ。和語的な熟語の組み立てが巧みだと思うし、和語のなかでも柔らかい音の言葉を持ってきてくるのも良い。「ひくくなりける」による時間帯の限定の仕方も、月という天体の特性によって限定しつつも一意に同定できず、しかし、その景だけははっきりわかるようにできている。月光が路地を照らす時間のスパンを、過度にドラマチックにせずに、「しばし」でとどめる歌の作りによって、見覚えのある光景を綺麗に切り取っている。
 
いましがた水撒(ま)かれたる巷(ちまた)には昼ちかづきし冬日(ふゆひ)照りをり
 
今を切り取ることによって、より大きな世界を描写するあり方は、やはり主体の解釈の妙というよりも、言語による驚異を感じさせる。雪が降った道は、夜や朝に水を撒いて溶かすと、凍結してしまうから、昼に撒くのが良い。だから、昼に近づく時間帯に、水を撒くのだが、その語順が論理の順番とは異なることによって、写真のような立ち姿を見せている。すなわち、写真という現象は、因果性のあるものをひとつの平面に置くのだ。氷雪を溶かす冬の光を迂遠な形で表現することで、写真的なものの奥にある様々な現象を見せている。
 
(かたむ)きし畳の上にねむり馴(な)れなほうとましき夜半(よは)にゐたりき
 
和室を上から見ているような構図をこのような形式で作れることに感動する。畳がひとつ傾けば、すべて畳は崩れるはずで、そのような図像的な散乱の中に主体は普段寝ているのだが、それでもやはり、この部屋に夜半に起きると、なにかうとましい感覚を覚える。住み馴れた部屋というものの持つ、自分を疎外する感覚を指し示す下の句は、写実というよりも身体に訴えるようなやり方で、「部屋」というモチーフの自分を閉じ込めつつ、自分を迎え入れない不気味さが表現されている。
 
「寒房」の連作構成も絶妙で、2首目と3首目で外のゆたかな光景を描出することによって、部屋に回帰せざるを得ない主体(あるいは人類全般)を描き出す。特に4首目はかなり連作に寄り掛かった歌で、連作として歌を構成しているような印象を受けた。

「永訣の朝」再読ノート

久しぶりに宮澤賢治の『春と修羅』を読み返している。ぼくがこの詩集を読んだのは、高校1年生のころだった。かっこいい響きのタイトルに魅かれて、図書館でなんとなく手にとった。
 
そのころの私は詩というものにまだ関心がなかったから、高校生のときに読んだ数少ない詩篇のひとつと言って良いだろう。だからこそ、強く印象に残っている。
 
そもそも旧仮名遣いさえちゃんと読めなかったので、基本的に読み取れるはずのことさえ読み取れてなかったと言えるだろうが、美しいことが書いてあるという感覚だけがあった。久々に読んで、確かに今でも難解な部分は多いものの、詩情がより具体的なイメージを伴って見えるようになったことがとても嬉しい。
 
久しぶりに読んでも、心を動かされる詩はあまり変わっていなくて、やはり自分は「永訣の朝」に強く心を動かされる。高1の自分は、親しい人との死別をそもそも経験していないのだが、やはりなにか「別れ」のようなものに敏感であった。それは転校が多かったからかもしれないし、そういう気質であったからかもしれない。
 
***
 
まず、第一に素晴らしいのは、空の暗さとそこから落ちてくる雨雪の明るさの対比であり、その空間の異様さに、死というモチーフや聖性を重ねると、自然描写がよりゆたかなものとして見えてくる。
 
うすあかくいつさう陰惨な雲から
みぞれはみぞれはびちよびちよふつてくる
 
 
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
 
陰惨な雲から降ってくるみぞれや雪の真っ白さ、そもそもその対比的にさえ見える天気のマジックが、永訣という事実の暗さと明確さをたたえている。写実的な天候の描写が、ある事実の器として機能することはよくあるが、複雑な感情に対する器としてこの上ないものと言えると思う。
 
***
 
次に素晴らしいのは、詩における時制のねじれである。そもそも、この朝が永訣の朝となることは、妹も主体も予期できないことであり、当然だがこの詩は事実を投影したものではなくて、仮構として再構成された事実である。だからこそ、妹が詩におけるどのタイミングで死んだのかはわからないままであるし、最初から、主体は妹の死を既知のものとして行動するという時制のねじれがおこっている。このことに注目すべきである。
 
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
 
この朝の間に、妹がとおくにいってしまうことは、本当は主体は知らないはずなのに、ここでは既知のものとして、つかの間生きている妹へとよびかけられる。そのことは、死における特別な時制のねじれを逆転したものとして捉えて良いだろう。
 
死んでから訃報がとどくまでの間ぼくのなかではきみが死ねない/吉田隼人『忘却のための試論』
 
他者の死において重要な時間のねじれは、他者が死んでいるにもかかわらず、生きていると考えている時間が存在することであり、そのズレを巡って葛藤がある。この詩においては、妹は生きているにもかかわらず、死の時点を規定された存在として描かれることによって、葛藤する存在を死を受け入れる者から死に向かう者へと移すことによって、妹が雪をわたくしに所望するという展開を作り出していることにある。葛藤は、死に向かう者から死を受け入れる者へと言動を通じて移されていく。その構造が素晴らしい。
 
***
 
素晴らしい点をすべてあげていくとキリがないのだが、最後に妹の言動として、この部分を引用したい。
 
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
 
急にローマ字で挿入される妹の言葉は、仮構たる詩において一層真実に近い部分であり、妹の声として見出されている。
 
あたしはあたしでひとりいきます
 
という意味という注がついているが、それよりもこの表記に注目したい。
 
当然、別れとは、ある存在とある存在が違う場所に進むことであるのだが、ここにおける別れは、主体の動作を伴わない。むしろ、病床で眠る妹こそが、egumoという形で、どこかへと行くという決意を固めている。それもOra Oradeというように、自分という存在を強く自覚しながら、どこかに行こうとしている。この詩が単なる主体の妹の死に対する感傷に留まらない深みを持つのは、妹の主体に対する強い訴えが、他の何とも文脈付けられずに残っているからに他ならない。その声は、いまだ主体とは異なる声として、主体の論理に回収されぬまま存在する声である。主体は、詩の運動によって妹の死を普遍化しようとしつつ、いまだ固有の声とともにあろうとしている。そのことの切実さを受け取りたい。
 
 

鏡のある部屋で——揺川環「鏡を覗く」評

 
家具を入れわれらを入れて狭くなる部屋にもわたしだけの耳鳴り
 
 この歌でかなり心を掴まれる部分があるというか、連作の方向性がバチっと決まっている感じがする。同棲を始め、家具を運び込み、自分たちも当然いて、狭く感じるのだけど、そこにはわたしだけに聞こえる耳鳴りがする。共有できないものがあることと、空間をともにすることが同時にあることに思いを馳せている主体の態度は、ネガティブでもポジティブでもなく、すごくフラットだ。
 
姿見のカバーはずせばその中で小さくカーテンつけている君
 
 これも引っ越しの様子を描いた歌で、この空間把握というか、映像感覚はすごいなと思う。君が長細い姿見のなかで小さく映しだされること、それだけといえばそれだけなのだけど、姿見が、身体ではなく生活とか部屋とか暮らしのようなものを映し出していることへのさりげない気づきがあって、それは誰かと同じ部屋に住むという主体の経験にとってとても重要なシーンに思える。
 
ニトリとかイケアの中で見たよりも家だと家具が大きく見える
 
 この空間把握も面白くて、単純に視覚的な把握としてもわかるし、ただの錯視ではない気がするのも良いなと思う。家具を組み立てたり、使ったりする中で、家具が本来の大きさを取り戻してくるというか、家や人に馴染んでくる感じをすごくさりげなく歌っているように思えて、とても良い。
 
 ここまでは、割と神野さんが『ねむらない樹』で触れている側面というか、生活に対する態度みたいなところを取り上げたし、実際、そこに大きな魅力を感じた。生活=人生にコミットする意志のようなものを感じるというのは本当にそうなのだけど、少し違う回路でその話をしていきたいと思う。
 
 時間に対する認識の話をしてみたい。
 
今バイト終わったよというLINE来て読んでいるうちに遠くなる今
 
もうすぐで夜明けだなって思ってるだけだったのに本当に夜明け
 
 この二首は視点が若干違うのだけど、ほとんど同じ時間認識を示している。というのは、ある時間を指し示すことの困難である。今が今ではなくなってしまったり、「もうすぐで夜明け」が「もうすぐで夜明け」ではなくなってしまうように、時間というものの指し示すことは難しい。そこに寂しい感じがあるのかもしれないけれど、多分そこまでではないのだろう。一首目(家具を入れ〜)同様、そのことをかなりフラットに捉えているように見える。
 
 ある意味ではそのことは二人の関係や暮らしというものに対しても言えるのだろう。ふたりの関係について言い得たことがすぐに言えなくなっていく感じのことを言っているのだ。耳鳴りが聞こえなくなり、カーテンが取り付けられるように。
 
 そしてその時間感覚が物理的にも現出するのは、鏡による効果である。ある物体が見えるというのは、光が少し遅れて目の中に入ってくることである。少し遅れてやってくる今は、はじめから今とは言えなくて、そのような時間が流れている部屋に二人でいることの不思議さや、絶対性を主体はからだで捉えている。
 
サービスでついてきたピザが冷えてゆく君がこんなに笑う夜でも
 
 そりゃそうだ。君が笑っても、ピザは冷えてゆく、当たり前だ。でも、そのことのかすかな不思議さに驚く主体のまなざしは、真剣に生活を生きている者のまなざしだと思う。
 
約束する 君がうがいをするたびにわたしは変顔して映り込む
 
 水を吹き出させるために変顔をするわたし。君との関係性の豊かさを読み取ることができる歌だけど、鏡という一つの平面に同時に映るわたしと君が、なんだか写真のようで、もしかしたら主体は、笑わせたいだけでなく、二人で笑っている姿が鏡に映ることになんだか安心しているのかもしれない。だから、
 
水垢の増えた鏡を覗き込んでやっぱ好きって言い合う遊び
 
 ふたりは直接顔を見るのではなくて、鏡越しに好きと言い合うのだろう。好きなのは、時間がどんどん流れてゆく部屋で、一緒に住んでいること自体なのかもしれない。
 
 誰かとともに暮らすことは、その人との時間や空間を引き受けることであり、そのことに向かい合おうとしている。その主体のしなやかな姿勢にとても好感を持った。