◯
レイ・ハラカミの「Come Here Go There」の終わりぎわ、エレクトロニカから蛙のような音をわたしは聞いて、もう一度その部分を再生した。ある音が、わたしには確実に、駅のプラットホームから聞く蛙の声に聞こえ、今のところわたしにとってその景は変わりようがない。
◯
きのうも同じ電車に乗っていて、そのときはたしかGalileo Galileiの「PORTAL」というアルバムを聴きながら、わたしは窓から家屋の屋根が光るのを見ていた。わたしはふとさびしくなり、どうしてさびしくなったのかわからなくて不安になった。あまり身に覚えのない感情だった。
満員電車は窮屈だが、いくぶんか慣れて、窓から見える冬の景色をすきに思う余裕もある。それなのに...。つかれているのかもしれないし、友だちに会いたいのかもしれない。友だちに会いたいが、たくさん言葉を交わしたい気分でもない。心のなかを覗き込むようにして求めるものをさがすと、旅先で夜ごはんを待つときに、友だちと向かい合わせで本を読んでいた時間と、こげ茶いろにひかる机が目に飛び込んできた。
◯
心のことを深いところまで知ろうとはおもわない。単純にそれはとてもおそろしいことだし、理由を問えど、深いところにあるなにかわからないものをひらこうとする言葉は、つねに迂回してもといた道にもどってしまう。
どのようにわたしが感じたのかを、できるだけ正確な程度と温度で書くことにする。言葉はつねに過剰で、それはときに怖いけれど、できるだけ簡単に、丁寧に、プレゼントをラッピングするように、感情をしるす。
◯
日々のちいさな折り合いのつけ方が、わたしにとっては重要なのかもしれない。[lust]は終わって、ランダム再生機能がサカナクションの「ミュージック」を耳にとどけている。わたしはポケットからセキュリティカードを取り出し、会社のビルへとすすんだ。
ボヤージ
福居良の「ボヤージ」は朝に似つかわしい音楽だ。ピアノを往復する指が見えるような軽やかさは、まだぼんやりしているわたしの意識と、身体と、しずかな朝の空間とを、ゆっくりと接続する。
ジャズのアルバムを聞いていると、いつの間にか次の曲になっていることが多い。詞のついた曲はいつもわかりやすく終わる、あるいは曲と曲のあいだを分けるものが多い。いつのまにか次の曲に接続されている形式は、すこし不慣れで、しかしそんなものかとも思う。
そう、接続のことを考えていたのだ。「ボヤージ」は楽しい音楽だが、どことなく静謐な印象がある。ドラムスのない音楽は、明晰にリズムが共有されない。われわれは、楽しくのびやかな曲の、たのしいリズムを自ら耳をそば立てて感じる必要がある。その心の態度に、静けさは宿るのかもしれない。
ボヤージ、それはたしかに海を進む船の運動を指すことばだが、そこに介在するはじまりの印象・出航の印象を消去することはできないだろう。太陽は東に低く、船に影をつけている。船乗りたちの生活がはじまる。海の上に自分がいることが、どこか夢であるような感覚を持ちながら、空間と意識を接続させる若い船乗りの身体を思う。思いながら、電車に乗り込んだ。
○
2022/10/19
レイ・ハラカミの[lust]というアルバムは、10曲53分で構成されている。家を出るときに聞きはじめると、井の頭公園の池の周りを散策しているうちに終わり、音楽が止まる。公園のざわめきや風の音を、いつもよりしずかな気分で聞くことができる。
○
仕事に用いる国家資格の試験を午前中に受けていた。有給を丸一日取ってしまったので、半日ぽっかりと休みになった。わたしは今からなんだってできる、海にも山にも行ける、と思ったが、本当にしたいことを考えたら、まずは昼寝をしたいと思ったので、家に帰ることにした。
途中でラーメンを食べた。神泉にある、うさぎというお店。
自転車置き場のラックの何番に置いたのかを、わりと写真的に覚えていることに気づく。67番だ、と思う。もしかしたら周りの人はこの回路が備わっていないのかもしれない、と思う。すこし怖くなる。
○
昼寝から覚めると3時。井の頭公園に行こうと思う。レイ・ハラカミの[lust]を聞く。感情のことを考える。
歩くとき、音楽を聞いているときに、わたしは人に会いたくなる。歩いている途中に6人の友だちと、3つの土地のことを思った。
After Joy という楽曲をいつも気にしている。楽しいことがあった後のことを思う。寂しいのだろうか。どこか体の奥に通路があるような気がする。
○
西日が射す公園を歩きながら、ファイナルファンタジーXにこんなマップがあったような気がした。音楽のせいかもしれない。光源のせいかもしれない。フェルメールのことを考える。
○
吉祥寺のchai breakに着いた。土日は混んでいるので、有給だと空いていてうれしい。和栗のチャイと、マフィン、プリンを食べる。
隣の席の2人が、染物についての話をずっとしていた。鉄で染める色が良いとか、セイタカアワダチソウも手順を踏むとかなり綺麗に染まるとか。わたしは小学生以来染物をしていない。藍染をしたい、と思う。藍は手につくと取れない。
メルヴィルの『白鯨』を読み進める。わたしの中にクジラが兆すことを待ち望みながら、読んでいる。
○
吉祥寺のジュンク堂へ行く。本当は、日本庭園についての新書が欲しかったがなかった。そういう時ほどたくさん買ってしまう。岩波新書『デューイ』『スピノザ』岩波文庫『アイヌ神謡集』『斎藤茂吉歌集』を買った。
むかし岩波文庫の表紙がいかめしく見えて好きじゃなかった。古典主義者になれなかったのはそのせいだ。
秋冬用のコートを買う。寒くならないとなかなかコートを買う気にならない。
○
レイ・ハラカミの音楽を帰りも聞いていた。あまりにも良かった。受動性のことを考え、しかし何かを書いておこうと、日記を書く。
◇
2022/10/16
李禹煥の展覧会に行った。乃木坂の新美術館。良く訪れる美術館のひとつだ。
展覧会に入場する前に、なんとなく落ち着きが足りないように感じたので、サカナクションのインスト楽曲を目を閉じて聞いた。落ち着くこと、静かであることが、李の作品を観るうえで重要だと直感したからだ。
◇
作品を観ることは、言語による批評を行うためにあるわけではない。それに、特にある作品について論じたいとも思わない。芸術を〈鑑賞する〉という行為とは別に、〈親しむ〉という行為があって良いし、あった方が良いと思う。
もっと器や書や、あるいはハンカチや木々に親しむ時間をとりたいと思う。親しむとは、事物との距離感を知り、記憶を纏わせることだ。
李の作品には、李のなかの記憶や配置があるのだろう。
◇
配置。新美術館は内装も外装も美しい。1階から見ると塔のように見える2階のカフェで、アプリコットのタルトを食べた。
外側にあったものに、いつのまにか包まれていくことがある。不思議に思うが、そんなに不思議ではないとも思う。西田幾多郎のことを考える。
◇
AirPodsには最近、ノイズキャンセリングだけでなく、外部音取り込み機能がある。かなりおすすめだ。いま、公園で虫の声を聞きながら、耳の奥で山口一郎が〈消えた〉と歌った。
しずけさとはなんだろう。最近わたしはしずかであるために歌を聞いている気がしている。
玉ねぎ
無機質なカフェのなかで、友だちと話をしているときに、ふと友だちがひとつのシステムに見えてきて、それを大切に思った。友だちの顔や目つきや着こなしを、それはそれで愛おしく思うけれど、わたしと友だちのあいだに丸いテーブルがあり、そこでなされる会話によって少し安心できる空間が切り拓かれ、わたしの発話を、おそらくは友だちの発話を助けることが、とても美しく見えた。わたしはロバート・マートンやニクラス・ルーマンに思いを馳せた。それは彼らのシステム理論の難しさや分厚さというよりも、なにか身体や身体の集まりや都市やそういったものを、物質そのものとしてではなく、なにかからなにかへの働きとして見ようとしたまなざしに共感するからだ。そこに信仰や美学を感じ取ることは難しくない。機能の集合として何か立ち現れるその構造、あるいは構造から新しく導きうる機能、その関係性について語りたい欲望のことが、よくわかる。
わたしや友人、すなわち個人というものをじっと見ていると、玉ねぎのようなイメージが重なって見える。わたしを包むカフェや都市や家族や国家や経済やその他組織は、簡単に階層的に切り分けられないものがあるとしても、玉ねぎのように概念上は見える。わたしを考えることがカフェを、都市を、会社を考えることになるときに、玉ねぎめいた世界に直面することになる。
玉ねぎの話をしたかった。それはわたしにとっては近い比喩で、多くの人にとっては遠い比喩だと思えた。わたしは友だちとその比喩の距離のことを考え、説明にかかる時間がどれくらいかかるかを考えた。しかしわたしの内部でなされた計算や思考は、発話としてテーブルの周囲の空間に発散されることはなかった。
文章というものが、わたしにとってとりわけ安心なスペースでよかったと思う。わたしがわたしに、誰かに宛てた言葉を、書くことができる、この形式は、わたしを安心させる。わたしは飲み会の多くが好きでない。わたしは飲み会で安心できないことが多い。しかし、多くの人が安心できるスペースであることを願う。システムであることを願う。
ゼミのあとで
両成敗の哲学
両成敗とは、「勝ちも負けもない」ことでは決してない。両成敗が指し示すもの、それは両者ともに負けるという事態だ。