なぞる

なんか書いたやつ

生まれる

 ぼくの誕生日は    年  月   日なのだけど、本当に生まれたのはいつなのだろう、みたいなことをたまに考える。ふつう、「生まれる」というのはお母さんのお腹のなかから、外に出て産声をあげることだけど、お腹の中でもぼくは存在していた。お腹を蹴ったぼくは生きていなくて、指を強く握り返すぼくは生きているなんて、奇妙な感じがする。
 
 
 「いつ生まれたのか」と同じくらい、「いつ死んだのか」も不思議な問いである。人は他者が死ぬときに立ち会うこともあるけれど、多くの場合、死は過去形で聞くことになる。「先程、〇〇さんが亡くなりました」のようなかたちによって。
 
 
 例えば、Aさんというあなたの友人が亡くなったとする。その人はあなたの故郷の友達で、すごく仲が良かった。そしてある日共通の知人Bさんから「Aさんの話知ってる?」なんていうラインが来る。そのとき、あなたはすごくAさんのことが懐かしくなって、今何してるんだろうみたいなことをたくさん考える。だから「えっ知らない知らない、どうしてるの今」みたいなラインを返す。それに対してBさんは「Aさんはおととい亡くなったんだよ」みたいなことを伝える。
 
 
  最後のラインが来るまで、あなたにとってAさんは生きている。Aさんの存在はあなたにとってリアリティーがあった。本当はもう生きていないのに。こういうとき、あなたにとってのAさんの「死んだ」タイミングはいつになるのだろう。あなたはきっと混乱する。「Aさんはおととい死んだ。だけどさっきまで俺のなかでは生きていたんだ。」
 
 
 そういう時系列の混乱を防ぐためにお葬式があり、命日が存在する。喪というものはきっと、誰かの死を受け入れるためのものだ。「Aさんは何日の何時に亡くなった」という共通見解を作り、その人の死を確定させるものだ。
 
 
  ぼくはそこに暴力的なものを感じてしまう。「生まれる」日時と、「死ぬ」日時は、そんなにきちんと確定されねばならないものなのだろうか?
 
 
  じゃあぼくが生まれたのはいつなのか?精子卵子が結合したそのときに生まれたのだろうか?あるいは、母親がぼくの存在をお腹のなかに感じたときなのだろうか?それとも父親がぼくのエコー写真を見たときなのだろうか?
 
 
 おそらく、「生まれていない」と「生まれた」の境界線、あるいは生と死の境界線ははっきりしたものではなく、グラデーションになっている。それは、履歴書に書くような、「4月1日〇〇大学入学」みたいな、ひとつに決められるものではない。ぼくはお腹のなかでも「やや生まれている」し、もしかしたら父と母が学生時代に「もし私たちの子どもができたら」と仮定法ではなしていたとき、彼らのまなざしの中にぼくは生きていたのかもしれない。
 
 
 「生まれる」と「死ぬ」は誰かのまなざしの中にしか存在しない。なぜなら、ひとは「生まれた」ときも「死ぬ」ときも意識がないからだ。「生まれる」ときと「死ぬ」ときは自分で決められるものではなく、必ず他者によって決定される。むずかしいことばでいうと、生死の境界線は社会的な構築物にすぎない。ぼくの誕生日は    年  月  日だけど、きみにとってぼくがいつ生まれたのかは、きっときみが決めることだ。
 
ブログ追記(2018/12/24) 生年月日を削除しました