なぞる

なんか書いたやつ

ファイト・クラブにおける男性性の表象

 ファイト・クラブについて、「ぽかーん」という感想になってしまったので(詳しくは前のブログ記事)、もう少し分析的な文章を読もうと思ったのだが、日本語の記事ではあまり良い批評が見つからなかった。そこで、英語の勉強も兼ねて、ひとつ英語論文を読んでみようと試みた。前紹介したのは、國分功一郎による消費文化についての批評だったので、次は男性性(masculinity)についての論文を読むことにした。この記事では、Google Scholarで引用数の多い論文をひとつ取り上げて紹介しつつ、ぼくの思うところを述べる。(ネタバレありです)
 
 
 今回取り上げるのは以下の論文である。
Ta, Lynn. M. (2006). Hurt So Good:" Fight Club," Masculine Violence, and the Crisis of Capitalism. The Journal of American Culture, 29(3), 265-277.
 
 
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 論文の著者、リン・ターは、映画「ファイト・クラブ」における暴力をジェンダーアイデンティティ、とりわけ白人の男性性を議論するために有効であると考えている。この映画において、特にその暴力は白人男性による自らに向かう暴力の形態として現れている。白人の男性性は、資本主義における昨今の女性活躍を含む、構造の変化のなかで見直しを迫られ、自らを被害者だと捉える想像力を創造している。白人の男性性の源泉にあるのは、近代における「自律」概念であり、欲望を否定する教育の中で、自らをコントロールしようとする主体像である。資本主義もまた、そのような主体を必要としたが、1960年代以降のアイデンティティ・ポリティクスや、白人中流階層の賃金の停滞によって、周縁化され、被害者である感覚を持ち始めている。一方で、白人男性が社会構造において優位にあるという状況において、「被害者」性を訴えることは困難である。ゆえに、自身の男性性が脅威にさらされているという感覚は、行き場を失っている。
 
 そのような解釈を裏付けるように、この映画では去勢不安のモチーフが散見される。睾丸摘出手術を受けたグループのメンバーや、映画にペニスの画像を仕込ませるタイラーのシーンだけでなく、より象徴的なのは、マーラのディルドを見たタイラーに対し、「心配しないで、あなたにとっての脅威じゃないわ」と言うシーンなど、自身の男性性の喪失に対する不安を象徴的に描く構図が多くある。
 
 行き場を失った男性性は、リン・ターの解釈によれば、自己に対する暴力へと向かう。主人公にとって本来の脅威は消費主義的な資本主義、あるいは社会進出する多様なグループにあるはずだ。特に前者に関しては、伝統的に女性的な領域=家具を欲望する主人公を、タイラーが攻撃するなど、消費主義的、女性的なものへの攻撃が、男性性の回復には必要なはずだった。しかし、そのような暴力は容易ではないがために、自己暴力へと向かう。それはタイラーとジャックに分裂し、タイラーがジャックを攻撃するという主人公の様子からも読み取れるし、ジャックとしての主人公が、会社との交渉のために自身を攻撃するという描写にも現れている。
 
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 以上が、この論文を自分なりに再構成したものであるが、とりわけ男性性と自己暴力、あるいはマゾヒズムと接続させる議論は面白かった。アメリカ社会では、特に人種と性別といったインターセクショナリティの観点から分析する必要性があり、この文献でも特に白人の男性性を論じるものになっているのは、そういう意味合いが大きい(確かに、ファイト・クラブの参加者は白人男性ばかりだ)。
 
 アメリカの文化的背景を知らないと、こういう分析はできないので、主人公の傷や痛みがどこから来ているのか、どのような手がかりが隠されているのかを知る上ではこの論文は非常に良かった。その上で、やっぱりこの映画を語る上で重要なのは、自分に引きつけていうならば、なぜこの映画に興奮したのか、という問題だと思う。
 
 いくつかのシーンで、胸が熱くなった。それは特に、「殴る」快楽というよりも「殴られる」快楽と結びついているような気がしている。それはもっと言えば、暴力を自分に振りかざすことによって、自身を痛みに慣れさせていく、強くなっていくという側面と結びついているようにも思う。何か苦しみがあるときに、それを目に見える形で表すという意味の自己暴力(あるいは自傷)は、この映画の中では、その傷を呈示するとともに、それに耐える自分であることも呈示しているように思う。