なぞる

なんか書いたやつ

逆照射されるドミナント・イメージ:瀬口真司「「脱出」の列へ : 塚本邦雄『日本人靈歌』論」を読んで

 短歌のことがわからない。もっと言うと短歌の歴史に到っては知らないに等しいのだが、12/10に以下の論文を読んでから、評をすることの凄さみたいなものに感動して、論文を読んで考えたことを書こうと思っていた。そもそもぼくは専攻が社会科学や社会思想にあり、文学の論文なんてほとんど読んだことがなかったから、すごく新鮮でとても楽しく読んだ。


◇瀬口真司 2021 「「脱出」 の列へ: 塚本邦雄 『日本人靈歌』 論」 立教大学日本文学 : 125, 16-29.
 
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=20596&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1&page_id=13&block_id=49


 この論文を読んだのは、第3回笹井宏之賞大森静佳賞受賞作の「KILLING TIME」がすばらしくて、もともと彼の書いたものをもっと読みたいという気持ちがあったことが大きい。『塚本邦雄全歌集』の第一巻を買おうかなと思っているときに、ちょうど瀬口さんの論文があることを知り、前述したように短歌/短歌史に無知な自分が読めるだろうかと怯えつつ、レポジトリのPDFのリンクをクリックした。


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 この論文は基本的に、『日本人靈歌』の巻頭歌の、

 

 日本脱出したし 皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係りも


 をめぐる先行するドミナントな解釈を批判しつつ、この歌と歌集のタイトルにもなっているフレームワークである「日本」/「日本人」がどのようなものであるかについて筆者なりの読みの可能性を探ったものと言える。
 筆者が指摘するのは、助詞「も」を【並列】ではなく【添加】として解釈しうることである。それはすなわち、「日本脱出したし」と言明/思惟するのは、「皇帝ペンギン」と「皇帝ペンギン飼育係り」だけではなく、その他の日本というフレームワークに閉じ込められた存在ーー筆者は特に戦時体制下において「日本人」として編入された「在日朝鮮人」や「在日台湾人」に注目するのだがーーを含みうるということである。そして、その解釈は特に倒置というこの歌の構造によって見出されている。
 もちろん、それ以外にも多くのことに触れている論文であるのだが、この部分に注目するのは、歌を読む上で、ドミナントな認識のようなものの力学がいかにそれ以外にもある複線的な解釈を阻んでいるかをまざまざと感じさせてくれたからである。たとえば歌会をするときに、「も」を【添加】として読むことは大いにありうるだろう。ぼくは特に一字空けを「ゆるい連関」くらいに捉えて読むタイプなのだが、そう捉えればまさに、「日本脱出したし」という言明が先にあるわけだから、それを考えている主体のようなものを、かなり広範に捉えた上で、下の句に移るのが自然であり、すると皇帝ペンギンが何を表象しているかがわからない段階では、【添加】と取るのが、むしろ自然なのではないかと思う。逆照射されるのは、皇帝ペンギン天皇と解釈したときの、ぼくたちの天皇制を中心とした「日本」に対する流通しているイメージが、いかに周縁的な存在に目を向けてこなかったかである。ぼくが言いたいのは、【添加】の解釈が出てこなかったのは、ぼくらの助詞に対する理解が不十分なことでは決してなく、「日本の市民」というものに対するイメージが極めて閉じていることが大きいのではないかということだ。


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 母國なきは爽やかならむ 炎天に濡れしバナナの皮の黑き斑


 筆者の論文でも引用されているこの歌を読んだとき、最初に受け取ったのは、母国というものを人は制度上持たざるを得ないということであり、実際にはその「爽やか」さは、架空のものであり、いわゆる脱出の不可能性を指し示しているように感じられた。それは主体をドミナントな日本人として想定したからであるが、よくよく考えると、母国とは、主に自分の生まれた国と別の国に住んでいる者の立場で用いる言葉である。そう考えていくと、論文で指摘されていたような、日本の外部にある「母國」を想定することができるかもしれない。あるいはそうでなくとも、主体が住む国が自分にとって異郷のように思われるような疎外感を捉えることができるかもしれない。
 一字空けのあとのイメージは「爽やか」とは程遠い、炎天下にあるバナナの皮である。バナナの皮が包むバナナはおそらくは誰かに食べられて、捨てられていて、その「黑き斑」すなわちシュガースポットに視点が移動する。バナナが完熟している証は、バナナが食べられたあと、全くの無意味になる。そこに、出身の国家が有徴される社会を映し出していると捉えるのは、読み過ぎであろうか。