なぞる

なんか書いたやつ

鏡のある部屋で——揺川環「鏡を覗く」評

 
家具を入れわれらを入れて狭くなる部屋にもわたしだけの耳鳴り
 
 この歌でかなり心を掴まれる部分があるというか、連作の方向性がバチっと決まっている感じがする。同棲を始め、家具を運び込み、自分たちも当然いて、狭く感じるのだけど、そこにはわたしだけに聞こえる耳鳴りがする。共有できないものがあることと、空間をともにすることが同時にあることに思いを馳せている主体の態度は、ネガティブでもポジティブでもなく、すごくフラットだ。
 
姿見のカバーはずせばその中で小さくカーテンつけている君
 
 これも引っ越しの様子を描いた歌で、この空間把握というか、映像感覚はすごいなと思う。君が長細い姿見のなかで小さく映しだされること、それだけといえばそれだけなのだけど、姿見が、身体ではなく生活とか部屋とか暮らしのようなものを映し出していることへのさりげない気づきがあって、それは誰かと同じ部屋に住むという主体の経験にとってとても重要なシーンに思える。
 
ニトリとかイケアの中で見たよりも家だと家具が大きく見える
 
 この空間把握も面白くて、単純に視覚的な把握としてもわかるし、ただの錯視ではない気がするのも良いなと思う。家具を組み立てたり、使ったりする中で、家具が本来の大きさを取り戻してくるというか、家や人に馴染んでくる感じをすごくさりげなく歌っているように思えて、とても良い。
 
 ここまでは、割と神野さんが『ねむらない樹』で触れている側面というか、生活に対する態度みたいなところを取り上げたし、実際、そこに大きな魅力を感じた。生活=人生にコミットする意志のようなものを感じるというのは本当にそうなのだけど、少し違う回路でその話をしていきたいと思う。
 
 時間に対する認識の話をしてみたい。
 
今バイト終わったよというLINE来て読んでいるうちに遠くなる今
 
もうすぐで夜明けだなって思ってるだけだったのに本当に夜明け
 
 この二首は視点が若干違うのだけど、ほとんど同じ時間認識を示している。というのは、ある時間を指し示すことの困難である。今が今ではなくなってしまったり、「もうすぐで夜明け」が「もうすぐで夜明け」ではなくなってしまうように、時間というものの指し示すことは難しい。そこに寂しい感じがあるのかもしれないけれど、多分そこまでではないのだろう。一首目(家具を入れ〜)同様、そのことをかなりフラットに捉えているように見える。
 
 ある意味ではそのことは二人の関係や暮らしというものに対しても言えるのだろう。ふたりの関係について言い得たことがすぐに言えなくなっていく感じのことを言っているのだ。耳鳴りが聞こえなくなり、カーテンが取り付けられるように。
 
 そしてその時間感覚が物理的にも現出するのは、鏡による効果である。ある物体が見えるというのは、光が少し遅れて目の中に入ってくることである。少し遅れてやってくる今は、はじめから今とは言えなくて、そのような時間が流れている部屋に二人でいることの不思議さや、絶対性を主体はからだで捉えている。
 
サービスでついてきたピザが冷えてゆく君がこんなに笑う夜でも
 
 そりゃそうだ。君が笑っても、ピザは冷えてゆく、当たり前だ。でも、そのことのかすかな不思議さに驚く主体のまなざしは、真剣に生活を生きている者のまなざしだと思う。
 
約束する 君がうがいをするたびにわたしは変顔して映り込む
 
 水を吹き出させるために変顔をするわたし。君との関係性の豊かさを読み取ることができる歌だけど、鏡という一つの平面に同時に映るわたしと君が、なんだか写真のようで、もしかしたら主体は、笑わせたいだけでなく、二人で笑っている姿が鏡に映ることになんだか安心しているのかもしれない。だから、
 
水垢の増えた鏡を覗き込んでやっぱ好きって言い合う遊び
 
 ふたりは直接顔を見るのではなくて、鏡越しに好きと言い合うのだろう。好きなのは、時間がどんどん流れてゆく部屋で、一緒に住んでいること自体なのかもしれない。
 
 誰かとともに暮らすことは、その人との時間や空間を引き受けることであり、そのことに向かい合おうとしている。その主体のしなやかな姿勢にとても好感を持った。