なぞる

なんか書いたやつ

遠野遥『教育』感想:「わからない」をめぐって

遠野遥『教育』を読んだ。とても面白かった。
芥川賞受賞作の『破局』が面白かったので、新しく出たこの本を購入した。あらすじをどう説明したらいいのかわからないのだが、帯文に書かれている抜粋を見れば、なんとなくわかると思う。
 
 
「この学校では、一日三回以上オーガズムに達すると成績が上がりやすいとされていて——」(本文より)
 
 
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 主人公(勇人)の、規範に対して疑いを持たない感じとか、自分の問題と他者の問題を区別する感じとか、とても合理的な気もするのだが、どうしても変な感じがする。例えば、このようなシーン。
 
 
「新入部員は募集しないのか。ひとりでは部費の請求もなかなか難しいだろう」
「募集しなきゃいけないとは思ってます。でも新しい部員を入れると部長との思い出まで消えていってしまうような気がして」
 未来の言っていることは、言葉の意味はわかるもののイメージが湧かなかった。新しい部員を入れるとどうして部長との思い出が消えるのか、私にはわからなかった。 
 私はそろそろ部屋に戻ると言った。
 
 
 主人公は、基本的に円滑にコミュニケーションをとることができているのだが、たびたび様々なものに対して「わからない」と思う。イメージが湧かないことは、よくわからない。そういうことは確かにある。
 しかし、主人公はそれに対して、「どうして?」とは尋ねない。わからないものに直面したときに、理由を探りたくなる人も多いと思うのだが、主人公は他者の問題と自己の問題を相当に切り分けて考えている。理由を問うことによって、何かの目的を達成できる場合には、尋ねることもあるが、他者に共感することはあまりないように見える。
 そのドライさには、心理学的な合理性を感じる。昔、『嫌われる勇気』というアドラー心理学の本を読んでいたときに、「課題の分離」というような話があった。ある問題があったときに、他人の課題には踏み込まず、自分の問題に集中することで、対人関係が改善するというような話だったと思う。そのような感覚が徹底的に身体化されている感じがする。
 
 
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 あまり良くないかもしれないが、ぼくは村田沙耶香コンビニ人間』のネガを見ているような感覚で、『教育』を読んだ。それぞれの主人公の感受性は、結構似ていると思う。ウェットな意味での共感感覚を二人とも持っていないように思う。『コンビニ人間』の場合は、そのような人間像が、コミュニケーションが苦手な人物のように捉えられている。むしろ世界の方があまり合理的でないものを含んでいるから、主人公は異端な人のようになる。一方で、『教育』は世界とか規範がどちらかというと合理的すぎて変な感じのディストピアだから、主人公は過剰なほどに適応する。古倉恵子はこの学校なら結構優等生かもしれない。
 
 わからないことが世の中にはたくさんあって、そのようなことを意味づけていくのも一つの生き方だが、とはいえ、特に解釈を加えず、「わからない」で済ませたり、コミュニケーションを取らないことも、とても自然なことのように思う。そして、それにあまり価値判断をくだそうとしないのも、とても自然なことだと思う。自然な感じがするのに、なぜ主人公にどこか奇妙さを感じるのか、ぼくはわからなかった。
 

 

 

 

 

◇いくつか感想を書いているブログ的なものを見つけたので、少し紹介します。

 

note.com

言葉の使い方に作家性を見出すところが面白かった。ぼくもこの作者の文体が気に入っている。筋肉質な感じで、比喩や接続詞、「〜と思った」などがかなり省かれていると思う。

 

bsk00kw20-kohei.hatenablog.com

主人公の無反応さに「宙吊り」という効果を見出しているところが面白かった。でもぼくは無反応なのは自然だと思った。
 
 
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