なぞる

なんか書いたやつ

佐藤佐太郎「寒房」鑑賞(歌集『歩道』より)

図書館で佐藤佐太郎集を借りて、読んでいる。写実的な歌の精度が高く、写実的なことを短歌でやることの凄さを改めて感じている。
 
ぼくにとって、写実的な歌を読むという体験は、現実に存在する素材のゆたかさに気づくという体験というよりも、むしろ、現実に存在する風景がこのような形式で言いうるのか、という言語的な気づきの体験としての比重が大きい。いわゆる「気づきの歌」が現実に対する解釈のあり方に魅力があるとするならば、写実的とされる歌は、現実を言語に落とし込むときに生まれる美しさに魅力がある。その魅力には、短歌という詩型が大きく寄与しているのだろう。これまでに見てきたものをこれまでにはあり得なかったかたちで表現するというあり方において、写実的な歌はそうでない歌と変わらないばかりか、より挑戦的なことをしているとさえ言える。その言語の形式の水準で新しさや美しさを読者に感得させなければならないからである。
 
第二歌集(出版されたのは最初の歌集)『歩道』より最初の連作である「寒房」を見てみよう。
 
 
寒房
 
敷きしままの床(とこ)かたづくるもまれにして家に居るけふは畳(たたみ)つめたし
 
街空(まちぞら)にひくくなりける月光(つきかげ)は家間(いへあひ)の路地(ろぢ)にしばし照りたる
 
いましがた水撒(ま)かれたる巷(ちまた)には昼ちかづきし冬日(ふゆひ)照りをり
 
(かたむ)きし畳の上にねむり馴(な)れなほうとましき夜半(よは)にゐたりき
 
 
敷きしままの床(とこ)かたづくるもまれにして家に居るけふは畳(たたみ)つめたし
 
敷いたままの布団を片付けるのがまれなほど、家に居ることのない主体が、畳のつめたさに思いを馳せる。布団の敷いていない和室は、思ったよりも寒かった。眠る場所でも食べる場所でもなく、ただ居る場所として姿を見せる「家」や「部屋」というモチーフの、空っぽな感じが際立っている。
 
「家に居るけふは/畳つめたし」という定型的韻律と、「家に居る/けふは畳つめたし」という動作で切れる形の韻律の二つがさりげないかたちで並存しているところも良くて、意味的には前者の韻律を捉えると論理的な感じがするのだが、後者における「居る」ことにフォーカスが当たっている感じもまたよい。
 
街空(まちぞら)にひくくなりける月光(つきかげ)は家間(いへあひ)の路地(ろぢ)にしばし照りたる
 
街空や家間という語彙による圧縮が素晴らしい。何か熟語を作り出すことによって、短い詩型に景を落とし込むというやり方のようだが、語彙の選び方が絶妙だ。和語的な熟語の組み立てが巧みだと思うし、和語のなかでも柔らかい音の言葉を持ってきてくるのも良い。「ひくくなりける」による時間帯の限定の仕方も、月という天体の特性によって限定しつつも一意に同定できず、しかし、その景だけははっきりわかるようにできている。月光が路地を照らす時間のスパンを、過度にドラマチックにせずに、「しばし」でとどめる歌の作りによって、見覚えのある光景を綺麗に切り取っている。
 
いましがた水撒(ま)かれたる巷(ちまた)には昼ちかづきし冬日(ふゆひ)照りをり
 
今を切り取ることによって、より大きな世界を描写するあり方は、やはり主体の解釈の妙というよりも、言語による驚異を感じさせる。雪が降った道は、夜や朝に水を撒いて溶かすと、凍結してしまうから、昼に撒くのが良い。だから、昼に近づく時間帯に、水を撒くのだが、その語順が論理の順番とは異なることによって、写真のような立ち姿を見せている。すなわち、写真という現象は、因果性のあるものをひとつの平面に置くのだ。氷雪を溶かす冬の光を迂遠な形で表現することで、写真的なものの奥にある様々な現象を見せている。
 
(かたむ)きし畳の上にねむり馴(な)れなほうとましき夜半(よは)にゐたりき
 
和室を上から見ているような構図をこのような形式で作れることに感動する。畳がひとつ傾けば、すべて畳は崩れるはずで、そのような図像的な散乱の中に主体は普段寝ているのだが、それでもやはり、この部屋に夜半に起きると、なにかうとましい感覚を覚える。住み馴れた部屋というものの持つ、自分を疎外する感覚を指し示す下の句は、写実というよりも身体に訴えるようなやり方で、「部屋」というモチーフの自分を閉じ込めつつ、自分を迎え入れない不気味さが表現されている。
 
「寒房」の連作構成も絶妙で、2首目と3首目で外のゆたかな光景を描出することによって、部屋に回帰せざるを得ない主体(あるいは人類全般)を描き出す。特に4首目はかなり連作に寄り掛かった歌で、連作として歌を構成しているような印象を受けた。