なぞる

なんか書いたやつ

詩で書き起こす:インタビューの編集の一事例

 まずは、次の英詩をお読みいただきたい。拙訳も付記するので英語が苦手な方は読み飛ばしてくださって構わない。


Pencilling It In


The Schaefer is gone.
The gold-tipped Parker's
relegated to the drawer,
its decisive black
used only on checks.


The felt-tip is abandoned
as too indelible.


For a time the blue automatic pencil
shot words off its tip.
Now its occasional care and feeding,
its hardened eraser
are too much.
He has become a pencil person.
The Number Two is all he pockets.
Its yellow (eraser worn with indecision)
can be  forgotten if dropped,
tapped to splinter
snapped in anger.


Light and hesitant, its words
make less and less impression,
weaken blurrily as they
reach the bottom
of a page
or a life.


鉛筆で書く


シェーファーのやつはどこかに行ってしまった。
先が金で出来てるパーカーのやつは
引き出しの中に追いやられた。
そのくっきりした黒は
試し書きにしか使われなかった。


フェルトが先のやつは
あまりにも消えないから棄てられた。


あるとき、青いシャープペンシル
ペン先から言葉を放った。
今はたまに気に留められて餌を与えられて、
硬くなった消しゴムが
たくさんある。
彼は鉛筆派になった。
HBがいつも彼のポケットにあり、
黄色(の、優柔不断をまとった消しゴム)
は落とされ、
踏まれて破片になって
怒りで割られて
忘れられることもある。


軽く、躊躇いがちに、
言葉たちは徐々に印象を弱め、
ページの一番下にたどり着く
頃にはぼやけて弱々しくなるだろう。
あるいは人生の。

 


 一読して、わかりやすい詩だと言えるだろう。シェーファーとかパーカーとかは、それぞれ文房具のメーカーを指している。ある男の子が鉛筆を好む様子や、それと対比されるかたちで消しゴムが床に落とされる様子などが描かれている。そこからは、少年時代にたくさんの文房具を与えられながらも、すべてを使い切ることができなかった思い出だったり、腕が疲れてページの最後まできちんとした筆圧で書けなかった思い出だったりが想起されるかもしれない。非常にノスタルジックな詩だと思う。

 

ーーー


 実はこれは、Lawtonという研究者が書いた、Tessという生徒に対するインタビューの様子を記したものである。Lawtonは、学校における生徒の語りを様々な方法で収集し比較するという研究を行ったのだが、その中の一つにこのように、詩によるインタビューの再構成というものがある。そして驚くべきことに、この論文はうんと長い論文なのだが、元となった語りは記述されていない。すなわちこれは表現であると同時に、この研究者なりの「記述」「書き起こし」でもあるのだ。


 語り手の語りを、聞き手が詩的に表現するやり方は、Laurel Richardsonという研究者が始めたものだ。これは、研究における記述スタイルは散文による報告でなくても良いのではないか、あるいはいくつかの知は詩によってより良く記述されるのではないか、といった、論文の書き方そのものへの問題提起でもある。


 Richardsonは、話し言葉が散文というよりも詩に近いと指摘する。例えば、ぼくらは話すとき半分くらい話していない。というのは、半分くらいは間を取りながら話している。そういうのも含めて、例えばエスノメソドロジーにおける正確なトランスクリプトのように、間や強調箇所も含めて記述することは一つの道だろうが、それ自体を見ることによって、完全に語りを再現できるわけではない。あるいは、語り手が存在する空間のイメージとか、語り手と聞き手の関係性などを表現することも難しい。そのようなことを鑑みると、詩による表現は、科学的記述におけるひとつのオルタナティブになる、と彼は考えている。


ーーー


 正直、ぼくはこの記述の方法が、どこまで使えるのかわかっていない。インタビューとはある意味で構成物である。語りは、聞き手と語り手の関係や、その状況などたくさんの条件から成り立っている。そのようなことを考えると、語りを単純なエビデンスとして持ち出すことは難しくなってしまう。とはいえ、インタビューを詩にすることは、聞き手=書き手の編集を前面化するということであって、読者としてはそのスタイルに戸惑ってしまう。

 

 とはいえ、英米圏でこのような記述の手法が導入されていることは、ほとんど日本に紹介されていないと思う。『ワードマップ 現代エスノグラフィー』にオートエスノグラフィーにおける詩の使用が書かれていたように思うが、これらは、自己の語りを詩にするか、他者の語りを詩にするかというちがいがある。


 だが、書き方の問題というのは様々な人が考えているのだろうと思う。たとえば、岸政彦や上間陽子のような質的研究の研究者の書き方は、散文であるとはいえ、比喩や叙情的な表現が用いられているという点で、このような「書き方」をめぐる問題に対するひとつの応答に、なりうるのではないか、と思う。


 また、より文学的な関心だが、人々の語りにおける「間の取り方」や「話すスピード」の解釈を人々がどのようにしているか、するのかといった関心を抱いた。

 

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◇Lawton,J. E. 1997. “Reconceptualizing a Horizontal Career Line: A Study of Seven Experienced Urban English Teachers Approaching Career End.” Ph. D dissertation, Ohio State University.

 

https://etd.ohiolink.edu/apexprod/rws_etd/send_file/send?accession=osu1394730077&disposition=inline


◇Richardson, L. 2003  "Poetic Representation of Interview"from  Gubrium and Holstein ed. "Postmodern Interviewing". Sage Publications.

 

https://www.amazon.co.jp/Postmodern-Interviewing-Jaber-F-Gubrium/dp/0761928502