なぞる

なんか書いたやつ

tankaと短歌のあいだ

 最近英語でエッセイを適当に書く遊びをしている。主題は本当にバラバラで、政治的なものごとからショートショートのようなものまで書いては、Mediumという英語圏のブログみたいなものに投稿している。自分が文学的なものごとで論じやすいものに短歌があるので、短歌を英語で評してみようとも思うのだが、大抵は英語にする価値がないものになってしまう。主語が曖昧なことによって短歌の世界は成り立っているように思える。「主体」という便利な言葉を、例えばthe narratorとかthe spekerとか表したときに、なんとなく違うなと思うのだが、かと言って、すべてのIを"I"みたいに書くのもいささか面倒で、すると、評する自分と主体が同じIで表現されるという事態になる。日本語であることと短歌の形式は、韻律面や文字の面だけでなく、主語が省略されることによってうまく成立するのだなと、つくづく思う。
 
 Q短歌会の機関誌第四号で、野口あや子さんにインタビューする機会をいただいたのだが、一行詩をジャポニズム的文脈で見たときにかっこいいのではないかみたいな話をされた。漢字やひらがなを用いたものとしては、やはり日本語特有のものだと思う。ただし、一行詩そのものに関しては、もともと英語圏由来の言葉であるから、単に歌人が英語で一行詩を書いたとして、そこにどのように短歌性を見出せるのかはわからない。
 
 英語圏haikuやtankaと言ったとき、それは一行詩ではなく、三行詩や五行詩のことで、それぞれ5音節-7音節-5音節(-7音節-7音節)となるものを指している。いわゆる韻とかメーター(音の強弱によってリズムをつける形式)といった伝統的な英詩のスタイルがなく、自由な形式として、イマジズムの詩人は強く影響を受けている。
 
 一方で、いわゆるhaikuやtankaに「短歌」の読者、作り手としてはあまり満足ができないのも確かだ。スタイルひとつとっても、三行詩や五行詩というなんか長方形だったり正方形だったりするような感じが、「短歌」の感じと違うなあと思ってしまう。やはり細長い形がかっこいいんじゃないかと思う。かと言って、英語の一行詩は短すぎる。複雑な意味が一行に納められている、それがやはり短歌のかっこいいところではないか、とも思う。
 
 スピヴァクによれば、外国語を学ぶ目的はその国の言語で書かれた詩を読むためだということだが、短歌はとりわけ日本語でしか読めない詩型だと感じている。主語の省略や、語順の入れ替えや、文字の使い分けなど様々な要素が絡み合っている。ぼくは日本語の他には英語しかわからないので(英語もそんなにできないのだが)、英語圏で短歌がかっこいいとなる未来はどこにあるのだろうと思うし、英語のネイティブ・スピーカーが日本の短歌を学ぶとき、どのように鑑賞するのだろうと想像する。
 
◇美しさのことを言えって冬の日の輝く針を差し出している/堂園昌彦
について書いたもの 小説風。

medium.com

 
◇I am a 大丈夫 ゆえ You are a 大丈夫 too 地上絵あげる/橋爪志保
について書いたもの 評論風。これなら日本語で書けばいいなあって感じ。
 
◇野口あや子さんのインタビューはこちらに載っています。

qtanka-tokyo.booth.pm