なぞる

なんか書いたやつ

ぼくたち、わたしたち

 小学校の卒業式に、「別れの言葉」というものがあった。誰かが「一年生」と言うのを合図に、みんなで大声で「いちねんせ〜い」と繰り返すアレだ。男の子全員が「ぼくたち」と大声を張り上げ、女の子が「わたしたちは」とそれに続き、全員で声を合わせた「卒業します」が体育館中にひびくと、「旅たちの日に」が流れ出すアレだ。
 
 
 練習の時はみんなふざけて、「楽しかった修学旅行」の部分を「楽しくなかった」に変えて叫んでみるやつがいたり、「わたしたち」の部分を担当したがる男子がいたりした。先生はたまに注意したけれど、もうそろそろ旅立つ生徒に対して本気で叱るのもバカバカしいと思ったのか、いつもの学校行事よりも和気藹々とした雰囲気が流れていた。
 
 
 ぼくは小学校6年生で転校してきたので、1年生から5年生までの思い出を、主語「わたしたち」で語られても困ってしまう。「みんなで作ったカレーの味は忘れることができません」とか言われても、「おれはそのカレー食べてないしな」という気持ちしか起こらなかった。「6年間一緒に過ごした仲間たちとの別れは寂しいけれど」とか言われると、自分がどうやら「仲間」とやらに入っていないことに気づいて傷ついた。「別れの言葉」はぼくにとって疎外感をかきたてるものでしかなかった。
 
 
 本番になると、今までふざけていた「仲間」も真面目に取り組む。「わたしたち」の部分は純然たる女子の声になったし、「卒業します」の声はしっかりと揃った。なんだか「仲間」がグロテスクなものに見えた。響く声は、ぼくを「仲間」から追い出そうとしているようだった。そっか、ぼくは「仲間」に入っているつもりだったけれど、どうやら違ったみたいだ。卒業式が終わったあと、はしゃぐ「仲間」の会話に入ることができなくて、「この後遊ぼうぜ」という誘いも断り、とぼとぼと家に歩いて帰った。
 
 
 
 
 主語のWEは、本当に恐ろしいものだと思う。「わたしたちは〇〇だと思う」と言った時点で、そう思っていない人物は「わたしたち」から排除される。仲間に入りたければ、〇〇だと思わなければならない。戦中に、国家の方針と違うことを考えていた人物が「非国民」とされ、「わたしたち」の外に置かれたように、主語WEは暴力的に作動する性質を持つ。個人の特有の体験や感情は捨象され、最大公約数の述語が選択される。本当に最大公約数ならば、WEは暴力として機能しないけれど、WEの範囲が大きくなるにつれて、共通の体験や感情を発見することは難しくなる。その場合、最大公約数に見せかけた述語が選択される。その体験や感情を持っていない人物を例外としてWEの外に置くのだ。
 
 
 だから、「わたしたち」ということばを扱うときは気をつけて共通の述部を探さないといけないのだけど、それは困難を極める。人によってそれぞれの単語に対して与えている意味づけは異なるからだ。
 
 
 「修学旅行楽しかったよな」ということばは主語が想定されていないが、「私たちは修学旅行を楽しんだ」という意味なので主語はWEと考えることができる。もし、「わたしたち」が全員修学旅行に参加していたとしても、人によって「楽しんだ」の基準は異なるだろう。楽しんでいるように見えた〇〇くんは実は主観的には退屈だったかもしれないのだ。
 
 
 
 
 
 
 ぼくときみの間には超えられない壁がある。ぼくはきみの気持ちを完全に理解することはできないし、きみの気持ちを同じように体験することはできない。そう思う一方で、きみがぼくと同じ気持ちを抱いていることを信じたくなるときがある。気持ちが通じ合っているとしか考えられない時がある。
 
 
 ぼくはどこかで、超えられない壁を超えることができるような気がしている。超えることを求めているのかもしれない。そんな時にぼくはWEを使いたくなってしまう。「〇〇って思ったよね!」「俺らはあのとき〇〇だった」そんなことばが暴力だとわかっていながらも、共感を求めてしまうのだ。
 
 
 あのとき、おぞましいと感じていた「ぼくたち、わたしたちは」の叫び声は、今でも脳の裏側にこびりついていて、ぼくをずっと揺さぶっている。でも、もしぼくが「ぼくたち」の「仲間」に入れていたならば、あの叫びはぼくに快楽を与えたかもしれない。超えられない壁を超えて、「仲間」と通じ合っているという快楽。
 
 
 超えられない壁を超えるには、ときには主語WEを使わないといけないのかもしれない。それが誰かを傷つけ、誰かを疎外させてしまうことを理解しないまま、快楽を得るためだけに使うのは嫌だ。超えられない壁を超える道具の使い方がわからないまま、"we, our, us ,ours"と格変化を家庭教師先の生徒に教えているが、「本当に大切なのはその使い方だよな」なんてことを寝不足の頭でぼんやり考えていた。