なぞる

なんか書いたやつ

依存・暴力・電話

・(ナカグロ)が好きで、よく使う。何か結びつかないものを結びつけることは、面白いと思う。ナカグロは、つなぎ目のことばを一つも用いずに、強制的に、そこに繋がりを見出させる作用があって、しかもそれがどんな関係なのかも提示しない。その直接性が、好きだ。


今の心境は、タイトルの通りで、依存・暴力・電話なのだが、これがどんな関係にあるのかは正直今のぼくにはよく分かっていない。だから、少しずつそれを開いてみよう、と思う。


野郎だけだなときみらが言ったときぼくは野郎にされてかなしい


こういう形の暴力性について、ずっと考えてきた。つまり、何かを名指すことは、相手の意味体系を切り裂くことであって、それはときに人を傷つけてしまう。そしてぼくも傷つくことがある。それでも、黙って、何もことばにしないわけにはいかないと思う。


ぼくの身体が完全にぼくの思い通りに行くわけではないし、ぼくのことばが完全にぼくの思い通りに行くわけではない。だからもちろん、他者の身体やことばもぼくの思い通りにすることはできない。そういうことばの持つ、暴力性、人間関係を有することの、暴力性に、過剰に自省的になることにどれほどの意味があるのか、ぼくはわからない。自分の人生を主体的に生きるためには、その暴力性と向き合った上で、語り、関係を結ばないといけない、と思う。


依存について。熊谷晋一郎は、「自立とは依存先を増やすこと」と言った。この言葉は、ぼくに影響を与えた。依存と自立は反対の意味ではなくて、自立するために、たくさんの何かに依存する必要があること、何かに依存しているというのは、むしろ依存先の数が足りていないのではないか。これは誰かを支援する上でもとても重要な視点だし、生きる上でもとても重要な観点だと思う。


でも、それを逆手にとって、人に依存することを正当化することが、どれくらい意味があるのか最近わからなくなってきた。なんというか、この言葉が当てはまる状況と、そうじゃない状況がある気がしていて、特に、精神的な問題に関しては、自分でじっと耐えることが重要なのではないかとおもう。というのは、それに必要なケアの総量というのは、自分でもわからないし、端的にいって、ニーズが無限になってしまう。そういうとき、自立するために依存先を増やそうとすると、依存すること自体が目的化していく。関わる側も、自分も疲弊してしまう。それはあまり良いことではない、と思う。


関係を切り結ぶことに、ある種の暴力性を伴うことを自覚して、それでも関係を結ぶ、そういう反省的な関係において、過度に関係を結ぶことは、相手だけじゃなくて、自分もしんどい。自分がそこにおいて不必要に傷つけたり、傷ついたりしていることを強く感じてしまうから。


よくプライベートで人と電話をする。あるいは、どうでも良いおしゃべりをする。そのときに、ぼくが人の時間を奪ってしまっていることを、強く自覚している。それは苦しいけれど、それでもぼくは寂しくて、今日あったことを、思ったことを、話したくなる。あるいは、きみが何を思っているか、何しているのかを、聞きたくなる。そうやってしか生きていけない部分がある。


タータンチェック 交わることはグロいからなるべく幾何で考えている


関係が始まったり、終わったりする。点と点を線で結んだり、それを消しゴムで消したりする。人間関係のことを、幾何的に考えたくなることがある。それが何かからの逃避だとは思わない。複雑な世界を、図式化して考えて、もう一回複雑な世界に向かい合えばいい。あるいは、複雑な世界を、ことばにしてみればいい。そんなに多くはない線を、たまに消して、増やして、でも点は、消えない。

 


レイ・ハラカミの音楽を聴きながら


2021年9月5日