なぞる

なんか書いたやつ

生活

ぼくは生活ができない。
 
 
小学生の頃の通信簿の「生活」の欄は、「もう少し」と「できる」ばかりで、「よくできる」は一つもなかった。特に、「せいりせいとん」はいつも「もう少し」で、先生の手書きのコメントにも「せいりせいとんをがんばりましょう」とあった。
 
 
お道具箱に乱雑に入れてぐちゃぐちゃになった宿題のプリントを出して先生に怒られたり、掃除のときに机が汚すぎて運べないと友達に言われたりした。ティッシュもハンカチも持ってなくて、手はいつもズボンで拭いた。ぼくは汚かった。
 
 
ぼくは勉強ができた。ぼくの通信簿に「よくできる」が何個あるのかを知りたがって、クラスメイトが通信簿を奪った。「すごい!23個ある!」「クラスで3番目だ」ともてはやされながら考えていたことは、「どうか生活の欄が見られませんように」ということだった。
 
 
生活ができないのに勉強ができて何になるのだろう、と小さい頃から思っていたし、実際にそのようなことを言われたことは何度もある。「勉強のできるバカ」「無人島で最初に死にそう」そういったことばを内面化し、ぼくは生活そのものにコンプレックスを抱えるようになった。
 
 
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父は「料理は手際だ」といつも言っていた。パスタを茹でながら隣のフライパンでソースを作り、まな板と包丁は洗いやすいようにすぐに水に浸けておく。マルチタスクで調理は進み、いつのまにか食卓の上には美味しそうな料理が並んでいる。
 
 
父は、ぼくとは全く異なるメカニズムで動いているように見えた。夜勤明けなのに机をふきんで拭いてピカピカにする父と、休日でなんの用事もないのに散らかった自分の部屋をさらに散らかすぼく。血は繋がっているのに、どうしてこんなに違うのだろう。
 
 
みんなと同じようには、ぼくは生活ができない。勉強がもっとできるようになっても、バドミントンができるようになっても、大切な友達ができても、ぼくは生活ができない。いくら「できること」を積み重ねても、土台にぽっかり穴が開いているような気がした。
 
 
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とはいえ、生活はそこにある。できるとかできないじゃなくて、ただ、そこにある。
 
 
ぼくは一人暮らしをしていて、洗濯も掃除も料理もしなくてはいけない。正確に言えば、放棄することはできるかもしれないが、そうすれば部屋は汚れ、食事は偏り、生活の質はどんどん落ちていく。となれば大学に行くこともままならなくなる。大学に行くためにはまず、生活しなければならない。
 
 
キッチンに立つ。父親のことばをインストールする。
 
 
「料理は手際だ」
 
 
ことばを通じて、ぼくは彼の料理をするときのまなざしを、手つきを思い出す。真似してみる。もちろん、彼が野菜を包丁で切るときの小気味よい音を立てることはできないし、卵料理を作るときのスピード感も再現できない。
 
 
ポテトサラダを作る。じゃがいもを茹でている間に、きゅうりと人参を切り、フライパンでは別の炒め物をして、空いた時間にはお皿を洗う。
 
 
じゃがいもが茹で上がるには時間がかかるから、慣れない包丁さばきでも、ゆっくりとマルチタスクを遂行することができる。少しだけ父の身体感覚を捉えた気がする。
 
 
ぼくは生活をすることが上手じゃない。不器用で、まめじゃなくて、ずぼらで雑だ。だけど、ぼくは父でもなく、クラスメイトの誰かでもなく、通信簿をつけてくれた先生でもない。ぼくにはぼくの身体があり、生活があり、それを実践するだけだ。
 
 
ぼくにも生活ができるかもしれない。そんなことを思っている自分に驚き、ふっと我にかえると、じゃがいもはすでに火が通っていた。軽く息を吐き出し、火を止め、ぼくはぼくの生活を続けた。