なぞる

なんか書いたやつ

褒める

 「“She is beautiful.”という文章は残酷だ。なぜならば、指示されていない女性全てを相対的に not beautifulとみなすものだからだ。」
 
 
 という要旨の話をする予備校の先生がいた。そいつはセクハラをするクズ野郎で、ぼくは好きじゃなかったけれど、この話はなんとなく心に残っている。あるものを積極的に指示して肯定することは、指示されていないものを消極的に否定することにつながる。反例もあるが、そのような側面があることは確かだと思う。
 
 
 褒めることは恐ろしい。そして難しい。3人のグループを想定してみよう。Aさん、Bさん、そしてぼく。
 
 
 まずぼくがAさんだけを〇〇という点で褒めるとすると、Bさんが〇〇でないという含意が生まれる。もちろん「〇〇である」という価値が普遍的な価値でない場合は、問題はない(問題があるケースもある:これは後述する)。だけど、例えばぼくが「Aさんは素晴らしい」とか「Aさんはすごい」という風に褒めた場合は、「Bさんは素晴らしくない」というニュアンスが生じる。
 
 
 だから、普通ぼくたちは普遍的な価値で人を褒めることをしない。できる限り明確で限定的な範囲について褒める。たとえば、「Aさんはバドミントンが上手ですごい」みたいな形で褒める。これはBさんがバドミントンをしている場合にはBさんを貶すことに繋がるが、Bさんがバスケットボールをしている場合には、その否定はBさん自身の否定には繋がらない。
 
 
 明確で限定的な価値を褒めたとしても、それが普遍的な価値を褒めることにつながってしまうことがある。ここでの「普遍」とはAさんにとってもBさんにとっても共通する価値のことだ。「Aさんはバドミントンが上手だ」と褒めたときに、Bさんにとってバドミントンがあまり価値を持たないことを前提していたとしても、その前提が正しいとは限らないのだ。Bさんは実は小学校の時にバドミントンをやっていて、どうしても上達しないからバスケに転身したのかもしれない。Bさんは実はバドミントンが上手だと思われたくて仕方ないかもしれない。この場合にはAさんを褒めることが隠されたかたちでBさんを貶すことにつながってしまう。
 
 
 明確で限定的な価値を褒めようとすると、その価値が相手にとっての価値でない可能性が生じる。むしろ、相手の否定につながってしまうケースがある。例えば、「Aさんは真面目だ」という褒めことばは、どう受け取られるのかわからないことばの一つである。「真面目」ということばは、翻せば「堅物」みたいなネガティブな意味を持つ。こちらがその一生懸命な様子を高く評価したとしても、堅物だと思われたくないAさんは貶されたように感じて、ムッとした表情を浮かべるかもしれない。
 
 
 「褒める」という行為は人を肯定して癒す行為のように見えるが、人を否定し傷つける行為になる可能性がある。それも隠蔽された形で作動する暴力なので恐ろしい。誰かを癒すことは他の誰かを傷つけることになるかもしれない。そんなことを考えるとぼくたちは誰も褒められなくなってしまう。何も褒められなくなってしまう。
 
 
 
 
 
 
 だけど、ぼくたちは誰かを褒めたい。何かを褒めたい。ぼくたちはすごい人を見たときに、「すごい」と思う。かわいい服を見たときに、「かわいい」と思う。かっこいい髪型を見たときに、「かっこいい」と思う。それはとても自然なことだ。それに、その褒めことばが相手を癒す可能性も高い。それなのに、傷つけることを恐れて何も褒められないのは、なんだか悲しい。頭の中にある褒めことばは脳の底に沈み、腐っていく。
 
 
 傷つけることを恐れると何も行為できなくなってしまう。ゆえに、その恐怖を捨てて、考えるのをどこかでやめて、エイッと行動する必要がある。どこかで不遜になって、「傷つけてもいいや」と思って褒める必要がある。
 
 
 おそらく、傷が全くない世界は、癒しも全くない世界だと思う。傷がないところに絆創膏を貼ってもかゆいだけだ。ある程度迷ったあとは、どこかで覚悟を決めて褒めるしかない。その褒めことばがあいつにとってのナイフだったなら、今度絆創膏を貼ってあげればいいんだと自分に言い聞かせながら。