なぞる

なんか書いたやつ

絵の前ではひとり

 美術館に行くことが好きだ。もちろん絵画や彫刻を見ることも好きなのだが、それ以上に「美術館」という場所そのものが好きだ。普段そんなことに関心がなさそうな人が、わざわざ絵を見るためだけにちょっと遠出をして、みんなで同じ絵を見るという営みは、よくよく考えるとすごく不思議だと思う。

 


  ぼくは、だいたい知り合いを誘って2人で見に行くことが多い。定番は、昼ごろに待ち合わせをし、ご飯を食べて、展覧会を見て、喫茶店に入って感想を語り合って、解散、というコースだ。ここで大切なのは、「絵の前では多くを語らない」ということだと思う。

 


  絵の前でおしゃべりするカップルが大嫌いだ。そんなに賢くもないのに知ったかぶりをした男の子が彼女に絵についてのうんちくを語っているのは、見るに堪えない。マンスプレイニングの典型だ。うんちくまでは行かないけど、「この絵の〇〇が良いよね」と言ってしまうのもあまり良くないと思う。それを言ってしまった時点で、彼女(あるいは彼氏)の視点は固定化されてしまうからだ。他にもあった感じ方=解釈は消え、たったひとつの見方だけが二人の間に強制される。

 


  絵を見るとき、ぼくたちは感じることを、あるいは考えることを余儀なくされる。マルセル・デュシャンの「ファウンテン」のように、ただの小便器でさえも展覧されたとき、それは作品となる。美術館に行くということは、美術作品に対して感じることを強いられる、ということだ。

 


  それはしばしば「絵との対話」になぞらえられる。絵について何かを感じ、何かを考えることは、「絵が何を語っているか」について考えることである。絵の声を聴くことである。一方で人間の方にも積極的な解釈の余地が許される。きみは、きみの思い出に重ね合わせて絵を楽しんでも良いし、作者が思ってもなかっただろうことを考えてもいい。主題とは全く異なる、端っこの方に書かれた犬だけを愛でることだってできる。ゆえに、絵を見ることは、絵の声を聴き、そして絵を自分なりに解釈することである。絵と人間との相互コミュニケーションが、きみの頭の中に立ち現れ、きみは何かを感じる。

 


  だから、絵を鑑賞するときには、誰かと一緒にいたとしても、ひとりでなくてはならない。いくら美術館が混み合っていようとも、ひとりでなくてはならない。絵との対話は孤独な作業だからだ。

 


  絵を見終わって、ミュージアムショップに行って、図録を見る。図録を見ながら、「この絵が良かった」「あの絵が良かった」と興奮を共有する。ことばに還元できない絵とのコミュニケーションを、どうにかことばに還元して共有する。そのとき、ことばの尊さとことばの限界を知ることができる。絵は決してことばを語らない。それなのに、絵との非言語的なコミュニケーションを、ことばにして共有できることにぼくたちは驚く。一方で、どこまでいっても語り得ぬ対話が絵との間に存在したことに改めて気づく。

 


  絵の前ではひとりだ。小説の前でも音楽の前でもそうかもしれない。作品の前ではぼくたちはひとりなのだ。大勢の人が一枚の絵を見て、それぞれ語り得ぬ感情を抱くこと。だけどそのいくらかは語り得ること。ささやかだけど確かなことばの力に、ぼくはいつも驚かされている。