なぞる

なんか書いたやつ

卒論、あるいはそれに紐づくものごとについて

 今日、卒論を出しました。よくわからない卒論ですが、概要などを書いておこうと思います。もし万一本文を読みたい方がいらしたら、連絡をください。
 
 「読書会のエスノグラフィ的分析」というタイトルで書いていたので、自分が社会科学関係、特に医療社会学や障害学について勉強していたことを知っている方からよく驚かれましたし、自分の所属するコースの中でもよくわからないことをしていたので、「何それ?」みたいな顔をよくされました。(実際、自分もよくわからない卒論を書いてるなあ、と思うことがありました。)
 
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 読書会研究に関しては、英米圏の文化社会学周りでいくつか行われています。特に、邦訳されているものだとエリザベス・ロングの『ブック・クラブ——アメリカ女性と読書』があります。これは、主にジェンダーを中心とした読書会の分析ですが、共同で本を鑑賞する営みの良いエスノグラフィにもなっています。エスノグラフィとは、民族誌のことで、元々は文化人類学の、異文化の記述を指す用語ですが、最近では異文化に限らず、文化や組織の記述を指すものとしても用いられている研究手法です。ぼくの卒論もそういった研究に位置付けられます。
 
 先行研究をまとめるとともに、自分でも調査を行ったのですが、そこではレイ・ブラッドベリの『華氏451度』という小説の読書会の様子を録音し、その会話を主に分析しました。あるいは、読書会の参加者にインタビューを行い、どのような意味づけがなされているかを分析しました。
 
 そこで気づいたのは、読書会の様子は多様なのにもかかわらず、参加者は同じような意味づけをしているという問題でした。「読書会によって得られるものはありますか?」のような抽象的な質問を行うと、参照するものが自分の記憶しかない語り手は、聞き手が言って欲しそうなことを回答してしまう、という問題がありました。インタビュワーとして熟練していれば、そのような問題は回避できるのかもしれませんが、ぼくの力量では、ティピカルな回答しか返ってこなかったのです。
 
 そこで、読書会の会話を文字起こししたものを相手に見せ、自分と一緒に分析し、その様子をさらに録音することにしました。つまり、ぼくのしたことを、参加者にも行ってもらったのです。自分で行った会話でさえ、もう一度確認してみると様々な気づきがあります。その気づきを生産する過程を記述することによって、もともと持っていた読書会像と、新しく獲得した読書会像を確認することができました。
 
 この部分が最も面白い部分でした。語り手をただ情報を提供する存在ではなく、情報を分析したり、解釈したりする存在として位置付けることによって、情報生産論としても読むことができると思いますし、これはもしかしたら他のトピックに関してもできるのではないか、と考えています。
 
 
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 このような論文が、自分の大学生活とどう結びつくかというと、まずは後期課程になって先輩と雑誌『現代思想』を読む読書会をしたり、短編小説を読む会を開いたりなど、実際に自分が読書会なるものに参加して楽しかったことや、ゼミなどで一つのテクストやトピックについて語ることがとても楽しかったことがあります。大学はぼくにとって、一人で学ぶ場所ではなく、様々な価値観を持つ人と語り合いながら学ぶ場でありました。それは時に、学問的なトピックを離れ、プライベートな話を交わす場でもあリました。ぼくにとって、大学はそのような「おしゃべり」の場であったと思います。
 
 とにかく演習形式の授業の多いコースだったので、お互いの解釈を話し合うことがとても多かった大学生活でした。さらに、去年からは短歌を詠むようになり、歌会でテクストの共同鑑賞をすることが増えました。読書会を記述することは歌会を記述することとそう遠くないでしょう。そういう意味でも、この論文は自分の大学生活と紐づいています。
 
 医療社会学・障害学への関心は、そもそもが「異なる」身体を持つ人の語りを聞くことに紐づいた関心だったので、質的な関心という意味ではそこまで遠くないと思っています。さらに言えば、ピア・グループや当事者研究でなされていることはまさに、自分や仲間の語りをともに解釈する営みと言えるかもしれません。ゼミで障害のある人の話と語るとき、ぼくらはある意味で本を読んでいたのかもしれない、と思います。
 
 
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 これで卒論としては終わりなのですが、医療社会学周りで「優生学/優生思想」の近年の言説の分析をしたいと考えているのと、インタビューにおける詩や比喩についてにも関心があり、その辺りもまとめてこのブログで発表できればと考えています。
 
 卒論に協力してくださったという意味では、データを提供してくださった方々がもちろん中心なのですが、以上のような意味では、大学をともに過ごした方や、歌会でご一緒した方が、ぼくのアイデアを支えてくれたと思います。ありがとうございました。

'disillusion'の訳語について

' disillusionは通常、動詞ならば「幻滅する」、名詞ならば「幻滅」と訳されることが多い。あるいは、disillusionmentと書いたとしても、基本的には「幻滅」を表すことが多い。
 
 ところで、「幻滅」とはどのような意味であろうか。インターネットで調べることができるデジタル大辞泉によると、
 

 [名](スル)期待やあこがれで空想し美化していたことが現実とは異なることを知り、がっかりすること。「―を感じる」「都会生活に―する」

 

 
 と書かれている。「幻滅」は文字通り「幻が滅びて、現実を知ること」だけでなく、それによって「がっかりする」という感情が生起することを指し示している。
 
 これは、英語の'disillusion'の意味と重なる部分もあり、例えばCambridge Dictionaryのdisillusionment(名詞)を見ると、
 
 a feeling of being disappointed and unhappy because of discovering the truth about something or someone that you liked or respected
 (あなたが好きだったり、尊重していたりしたものや人の真実がわかることによってがっかりしたり、アンハッピーになったりする感情)
 
 と説明されており、これは日本語の「幻滅」とほとんど重なった意味の捉え方と言っていいだろう。この場合、当然訳語は「幻滅(する)」で構わない。
 
 しかし、例えばOxford English Dictionaryにおいてはdisillusion(名詞)は次のように説明されている。
 
 The action of freeing or becoming freed from illusion; the condition of being freed from illusion; disenchantment.
 (幻想から自由になるはたらき、幻想から自由になる状況、脱魔術化)
 
 ここでは、いわゆる「幻が滅ぶ」というはたらきや状況を示しており、感情にまで言及されていないことに注目したい。そして、感情を伴わない'disillusion(ment)'は実際に存在する。
 
 例えば、前にブログで取り上げた論文では、このような文章があった。
 

 My reading argues that self-violence allows white men to play the oppressed, but it also goes to the source of their disillusionment—themselves; sitting at the top of the social and economic pecking order, they are the ones who have allowed masculinity to be commodified.

 

 
 文脈がないとわかりにくい文章だが、幻滅と訳すならば、次のように訳せる。
 

 「私の読解によれば自己暴力は白人に抑圧されている者を演じることを可能にする。しかし自己暴力は彼らの幻滅の源泉にもなるだろう。——彼ら自身。社会的・経済的には頂点にある彼らは、男性性を商品化することを可能にしている」

 

 
 しかし、ここでは、「幻滅の源泉」ではやはり意味が取れない。そしてthemselvesも訳しきれないだろう。ここではやはり、「幻が滅びる」という力学のみを記述しているのだ。そこで、このように訳出してみよう。
 
 

 「私の読解によれば自己暴力は白人に抑圧されている者を演じることを可能にする。しかし自己暴力は彼らの持つ幻想を砕く源泉ともなっている——彼ら自身に投影された幻想を砕く源泉に。社会的・経済的には頂点にある彼らは、男性性を商品化することを可能にしているのだ」

 

 
 このように「幻想を砕く」のようにその働きのみを訳出することによってはじめて、訳すことのできる'disillusion(ment)'がある。
 
 そう考えていくと、例えば「幻滅」を「脱魔術化」と置換するような訳も考えられるかもしれないが、「脱魔術化」は 'disenchantment'の訳語として流通しており、こちらはウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に由来する用語だから、注意が必要だろう。

ファイト・クラブにおける男性性の表象

 ファイト・クラブについて、「ぽかーん」という感想になってしまったので(詳しくは前のブログ記事)、もう少し分析的な文章を読もうと思ったのだが、日本語の記事ではあまり良い批評が見つからなかった。そこで、英語の勉強も兼ねて、ひとつ英語論文を読んでみようと試みた。前紹介したのは、國分功一郎による消費文化についての批評だったので、次は男性性(masculinity)についての論文を読むことにした。この記事では、Google Scholarで引用数の多い論文をひとつ取り上げて紹介しつつ、ぼくの思うところを述べる。(ネタバレありです)
 
 
 今回取り上げるのは以下の論文である。
Ta, Lynn. M. (2006). Hurt So Good:" Fight Club," Masculine Violence, and the Crisis of Capitalism. The Journal of American Culture, 29(3), 265-277.
 
 
 ***
 
 論文の著者、リン・ターは、映画「ファイト・クラブ」における暴力をジェンダーアイデンティティ、とりわけ白人の男性性を議論するために有効であると考えている。この映画において、特にその暴力は白人男性による自らに向かう暴力の形態として現れている。白人の男性性は、資本主義における昨今の女性活躍を含む、構造の変化のなかで見直しを迫られ、自らを被害者だと捉える想像力を創造している。白人の男性性の源泉にあるのは、近代における「自律」概念であり、欲望を否定する教育の中で、自らをコントロールしようとする主体像である。資本主義もまた、そのような主体を必要としたが、1960年代以降のアイデンティティ・ポリティクスや、白人中流階層の賃金の停滞によって、周縁化され、被害者である感覚を持ち始めている。一方で、白人男性が社会構造において優位にあるという状況において、「被害者」性を訴えることは困難である。ゆえに、自身の男性性が脅威にさらされているという感覚は、行き場を失っている。
 
 そのような解釈を裏付けるように、この映画では去勢不安のモチーフが散見される。睾丸摘出手術を受けたグループのメンバーや、映画にペニスの画像を仕込ませるタイラーのシーンだけでなく、より象徴的なのは、マーラのディルドを見たタイラーに対し、「心配しないで、あなたにとっての脅威じゃないわ」と言うシーンなど、自身の男性性の喪失に対する不安を象徴的に描く構図が多くある。
 
 行き場を失った男性性は、リン・ターの解釈によれば、自己に対する暴力へと向かう。主人公にとって本来の脅威は消費主義的な資本主義、あるいは社会進出する多様なグループにあるはずだ。特に前者に関しては、伝統的に女性的な領域=家具を欲望する主人公を、タイラーが攻撃するなど、消費主義的、女性的なものへの攻撃が、男性性の回復には必要なはずだった。しかし、そのような暴力は容易ではないがために、自己暴力へと向かう。それはタイラーとジャックに分裂し、タイラーがジャックを攻撃するという主人公の様子からも読み取れるし、ジャックとしての主人公が、会社との交渉のために自身を攻撃するという描写にも現れている。
 
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 以上が、この論文を自分なりに再構成したものであるが、とりわけ男性性と自己暴力、あるいはマゾヒズムと接続させる議論は面白かった。アメリカ社会では、特に人種と性別といったインターセクショナリティの観点から分析する必要性があり、この文献でも特に白人の男性性を論じるものになっているのは、そういう意味合いが大きい(確かに、ファイト・クラブの参加者は白人男性ばかりだ)。
 
 アメリカの文化的背景を知らないと、こういう分析はできないので、主人公の傷や痛みがどこから来ているのか、どのような手がかりが隠されているのかを知る上ではこの論文は非常に良かった。その上で、やっぱりこの映画を語る上で重要なのは、自分に引きつけていうならば、なぜこの映画に興奮したのか、という問題だと思う。
 
 いくつかのシーンで、胸が熱くなった。それは特に、「殴る」快楽というよりも「殴られる」快楽と結びついているような気がしている。それはもっと言えば、暴力を自分に振りかざすことによって、自身を痛みに慣れさせていく、強くなっていくという側面と結びついているようにも思う。何か苦しみがあるときに、それを目に見える形で表すという意味の自己暴力(あるいは自傷)は、この映画の中では、その傷を呈示するとともに、それに耐える自分であることも呈示しているように思う。

贈与と聖物:感想

 ◇森山工2021『贈与と聖物——マルセル・モース「贈与論」とマダガスカルの社会的実践』東京大学出版会.
 
 
 森山は『贈与論』の訳者でもあり、マダガスカルをフィールドとするフィールドワーカーでもある。マダガスカルに関する本を読むのははじめてだったが、『贈与論』自体は森山の訳で読んだことがあり、美しい装丁が気になって手にとり、年末にゆっくり読んだ。
 
 高校の時、ある教師が、最も手が掛かる生徒は、自分が何がわからないかもわからない生徒だと言っていた。そういう意味では、ぼくは『贈与論』に関して同じような状態だった。大学3年生の時にぼくが読んだときのメモには「贈与という行為をいろいろな角度から説明しているけれど、同じことをずっと言っているような感じがする」と書かれていて、『贈与論』に対して何か面白い疑問を提示することのできる状態ではなかったようだ。
 
 それでも『贈与論』を読んだ後は、なんか「贈与」が大事な感じがして、友達に急にプレゼントを贈ってみたり、自分が損をしているような感覚を、「これは贈与だからいつか返ってくる」といった具合に埋めてみたりといった形で、世界の見え方が変わったように思う。『贈与論』を読む前と後で、世界に対する認識が変わっているならば、もしかしたら実践のレベルでも何か変わったのかもしれない。そういう意味では重要な書物だった。
 
 * * *
 
 この本における第一に重要な指摘は『贈与論』には「贈与」にも「交換」にも定義がなされていないというものである。
 
 わたしに「贈与論」を複雑で多面的なテクストと思わせる最大の要因がある。それは、「贈与論」における定義の不在である。もう一度、その正式タイトルを確認するなら、それは「贈与論——アルカイックな社会における交換の形態と理由」である。少なくともこのタイトルには、「贈与」ならびに「交換」が主要なテーマであることが明示されている。そうであるにもかかわらず、「贈与論」には、「贈与」についても「交換」についても、定義が示されていないのである。
 
 確かに…と思った。何が贈与で、何が交換かをわからなくさせていたのは定義の不在だったのか!例えばお返しを明らかに期待している贈り物があったとしてそれは本当に贈与と呼べるのか、みたいなことを考えていたのだが、森山の整理によれば、それは以下のような弁別ができるようだ。
 
 (贈与が)「交換」に転化するのは、一方が他方に、たとえば次のようにいった瞬間である。「あなたの誕生日にはプレゼントをあげたのに、わたしの誕生日は無視するわけ?」
 
 すなわち、何かを返礼するという義務が要求という形で明示されたときに、贈与は交換に転化するということのようだ。逆に言えば、贈与として解釈されていた行為は、お返しの要求をした瞬間に、贈与としての価値を失うような行為と言えるだろう。
 
 * * *
 
 さらに、重要な指摘として、贈与論には「譲りえぬもの」「聖物」という裏テーマがあるのではないか、という指摘である。モースの以下の文を参照して、
 
 何かを誰かに贈るということは、自分自身の何ものかを贈ることになるわけである。
 
 「すべて」ではなく「何ものか」を贈るということは、贈ったのちに「残余」が手元にとどめられているということなのではないか、と森山はここで解釈していくのだが、この大胆な反転にワクワクさせられた。贈与されるものと同時に贈与されないものがあること、ここから森山は、自己を生成しそれに対する他者の承認を得るというかたちで贈与行為を説明していくのだが、これに関しては、実際に森山の立論を読んで考えていった方が良い。
 
 * * *
 
 プロローグとエピローグは、「概念」や「分析」によって、ある発話の意味が大きく違って見えるというような、人文学の凄み・面白みを伝えてくれるエピソードからなっている。
 
 この本を読んで、自分の認識枠組みはどう変わるのだろう。モースがギフトの「モノ」に注目していたのならば、森山はギフトする「人」に注目している。ぼくは、何かものをあげるたびに、自分を作り出していることに気づくのかもしれない。どのような変化がこの本を通じて起こるのかが、今から楽しみである。
 
 
 * * *
 
 この本に関しては小川さやかさんが読売新聞で書評を書いている。
 

www.yomiuri.co.jp

 

 また表紙のイラストはパウル・クレー「黄金の魚」(1925)。詳細な絵の全体像は以下からアクセスできる。

 

 

online-sammlung.hamburger-kunsthalle.de

 

 

 

國分功一郎のファイト・クラブ

 ファイト・クラブAmazon Primeで見た。友達が面白かったと言っていて、気になっていた。
 
 自分の感想を言うと、「ぽかーん」という感じ。終盤の仕掛けのあたりで、どんどん世界が内側に閉じていく感じがして、そこで置いてかれた。でも、それを含めても面白かった。
 
 
***
 
 
 國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』でファイト・クラブを参照しながら、消費社会について論じている(國分 2015: 159-171)。この記事ではその箇所を検討していきたいと思う。なお、この記事ではあらすじは飛ばすので、たとえばWikipedia*1などを参照して欲しい。
 
 ここでは、ボードリヤールなどを参照しつつ、消費とはモノに付与された意味や観念、記号に対して行われる事態であることが説明されたのち、そのような消費社会と退屈の関係を論じるために、「ファイト・クラブ」が参照される。
 
 これは消費社会とそれに対する拒否とが陥る末路を、悲喜劇的な仕方で見事に描いた作品である
 
 このように評したあと、主人公(I)が暇なき退屈をしていると論じ、それをブランド品の消費によってやり過ごそうとしているとする。その後の自助グループへの参加=苦しみの擬似経験や、ファイト・クラブの発生によって現実=苦しみを味わうことによって、解放感を得ようとしている、とする。それらは以下のように整理されている。
 
 (1)現実離れした消費のゲーム——ブランド狂い
 (2)現実(苦しみ)のシュミレーション——難病患者ミーティング
 (3)現実(苦しみ)の現前——ファイト・クラブ
 
 まず、一つ注意を加えるならば、ファイト・クラブで挙げられているミーティングは必ずしも難病とはいえない。多くはがんや依存症であり、少なくとも日本における「難病」ではないことは指摘しておきたい。
 
 その上で、この構図的整理はとても興味深かった。記号に対する消費から、より記号的でないもの=現実へと向かおうとする主人公は、確かに國分の言うところの「浪費」へと向かおうとしているのかもしれない。この映画を見ればわかるように、ファイト・クラブは「ストップ!」と叫べば終わるし、身体は疲れるから、ずっとし続けるわけにはいかないからだ。
 
 さらに、國分はタイラーを評するなかで、タイラーもまた、消費社会の論理に従って消費社会を拒否していると指摘する。つまり、タイラーは消費社会をただ拒絶しているだけであって、それに代わる明確なビジョンを持っていない。彼が持っているのは単なる破壊の構想であり、消費社会をただただ壊そうとすることこそがタイラーの企みであるのだ。
 
 ここでさらに面白いことに、國分は、消費社会はタイラーをも商品にしてしまうかもしれないとし、脚注でチェ・ゲバラがキャラクター扱いされていることに触れている。これはこの映画のアダプテーションを考える上で面白い指摘だと思う。いくつかの個人のブログで、タイラーのセリフや、その容姿に憧れている様子のコメントが散見されるが、これはタイラーというキャラクターをそのまま消費する営みと言っても良いだろう。
 
 タイラーのような消費社会のミラーイメージは、消費社会が自らの存続のために作り出しているとすら言うことができる。
 
 そのような読みを踏まえると、消費社会の破壊さえも消費社会の論理に取り込まれているだけでなく、「消費社会の破壊」を消費することまでもを、消費社会における欲望として捉えることができるだろう。それだけではない。國分が注で触れているように、苦しむことの欲望、組織されることの欲望、規律されることの欲望もまた、現代の社会における隠れた欲望としてこの映画では表象されている。
 
 
***
 
 
 最初にぼくの感想として、「閉じていく感じ」という評をしたのだけど、それこそが消費社会というモチーフにおける閉塞性、あるいは外に行こうとすればするほど内側にいることに気づかされる感じと響いているのかもしれない。様々な欲望が喜劇的に描かれるたびに、自分もまたその欲望を追体験したくなるのだけれど、それを必死で食い止めようとする自分がいることに気づく、そのこと自体が分裂的なこの映画のモチーフと重なって感じられた。
 
 ◇國分功一郎2015『暇と退屈の倫理学 増補版』太田出版.

「聞く」の実際。——信田さよ子・上間陽子『言葉を失ったあとで』感想——

信田さよ子・上間陽子, 2021『言葉を失ったあとで』筑摩書房.
 
 「聞く」の実際。
 
 帯に書かれた大きな文字。対談を読みながら、「聞く」ってなんだろうということを、懸命に考えなくてはならなかった。
 
 信田 セクハラや性被害の深刻化は、地震の揺れのようにその瞬間に起きるわけではない。その経験がどのように聞かれるかによって、つまり周囲の誤解と無理解によってどんどん雪だるまのように膨らみ、倍加していく。(14ページ)
 
 ここにも、「聞かれる」ということばが出てくる。この引用文の言わんとすることを、ぼくはわかっているつもりだった。だけど、それはとても、とても重い問題だということに気づいた。
 
 経験を聞くというのが、いかに難しいかについて、この本では何度も、何度も語られる。カウンセリングでも社会調査でも、語り手は簡単に自分の被害を語ってはくれない。対応によっては、語り手をさらに傷つけてしまうこともある。
 
 第五章で信田さんが、「言葉を禁じる」と言っていたのがとても興味深かった。「意志が弱くて」とか「自己肯定感」といった近代に流通している語彙を使わないように語り手に伝えつつ、聞く。聞くということの、能動性や介入性がわかるエピソードだ。
 
 セクハラや性被害をはじめとする、なかったことにされやすい傷を、どう聞けばいいのか。それはもちろんポジショナリティや文脈によって大きく変わってくる。どのような話であっても、こうとしか聞けない、という「聞く」経験を積み重ねていきたいと思った。
 
 坂上香『プリズン・サークル』を観たいです。近辺で上映することがあれば観に行きます。
 
 

Rex Orange County "It's Not the Same Anymore"——和訳・分析・エッセイ——

Rex Orange County "It's Not the Same Anymore"——和訳・分析・エッセイ——
 
 Rex Orange Countyの "It's Not the Same Anymore"を最近良く聴いている。彼の3枚目のアルバム"Pony"の最後に収録されているこの曲は、YouTubeでは音源が377万回、ライブが210万回再生されている(2021年12月現在)。シンプルな歌詞に、強い感情が込められ、音楽に乗って届けられている。彼の音楽について批評することは、音楽の勉強をしていないぼくの技量の外にあるが、歌詞についてはいくらか語ることができる気がするし、それはこの曲の一つの紹介になるかもしれない。ぼくはそういう気分になっている。
 

youtu.be

 

 

 英語が母語ではない筆者でも、意味がとれるくらいシンプルな歌詞では、表題の通り、'It's not the same anymore’(もう同じではない)と自身に言い聞かせるような詞が繰り返される。何か分析を加える前に、まずは歌詞と日本語訳を提示する。ナチュラルな訳というよりは意味を取るための補助線としてお読みいただければ幸いである。

 

日本語訳

I'll keep the pictures saved in a safe place
Wow, I look so weird here
My face has changed now
It's a big shame
So many feelings, struggling to leave my mouth
And it's not that rare for me to let myself down
In a big way
But I had enough time and I found enough reason to accept that
 
安全なところに保存された写真を取っておこう
ここでの私はひどい見た目だ、
私の顔は今や変わって
とても恥ずかしい
たくさんの感情があって、口から出ようともがいている
自分自身をひどくがっかりさせることは
珍しくない
でもそれを受け入れる十分な時間があったし、十分な理由を見つけたんだ
 
It's not the same anymore
I lost the joy in my face
My life was simple before
I should be happy, of course
But things just got much harder
Now it's just hard to ignore
It's not the same anymore
It's not the same anymore
It's not the same, but it's not a shame 'cause
 
もう同じとはいえない
顔から喜びを失った
以前は人生はシンプルだった
幸せであるべきだよ、もちろん、
でもただ状況がさらにひどくなって
ただ無視するのが難しくなった
もう同じとはいえない
もう同じとはいえない
同じじゃない、でも恥ではない、だって
 
I spend a long time putting up with people
Putting on my best face
It's only normal when you stop things in the wrong way
It's only four o'clock and still, it's been a long day
I just wanna hit the hay
People knocking on me like every day
I'm tired of taking stress
If only there could be another way
I'm tired of feeling suppressed
And when they want me the most
I'm tired of acting like I care, but I do
And I can't wait to hit the bed
But tomorrow makes me scared
 
人々がぼくのベストな顔に化粧を施してくるのを
耐えるのに時間を費やしてきた
間違った方に行きそうなものを止めるのは普通だろ
まだ4時で、まだ一日が終わるまでには時間がある
ただ寝たいと思っている
人々はだいたい毎日ぼくをノックして
ストレスを感じることにうんざりしている
もし別の道があったならな
抑圧されていることにうんざりしている
人々が最もぼくを求めるとき
気にかけているように振る舞うことにもうんざりしている、でもそうする
ベッドに飛び込むのを待てない
けど明日がぼくを怖がらせる
 
'Cause it's not the same anymore
I lost the joy in my face
My life was simple before
I should be happy, of course (Of course)
But things just got much harder
Now it's just hard to ignore
It's not the same anymore (It's not the same)
(It's not the same)
(It's not the same)
It's not the same anymore (It's not the same)
(It's not the same)
(It's not the same)
 
だってもう同じとはいえないから
顔から喜びを失った
人生はシンプルだったのに
幸せであるべきだよ、もちろん
でもただ状況がさらにひどくなって
ただ無視するのが難しくなった
もう同じとはいえない
もう同じとはいえない
 
Oh-oh
(It's not the same)
(It's not the same)
(It's not the same)
Oh-oh
 
I kept the feelings inside
I open up when shit gets built up this high
She makes it easy to cry
The words fall out of me and there's no more disguise
I miss the days when I was someone else
I used to be so hungry
Right now, my stomach's full as hell
And I've spent many months just hating on myself
I can't keep wishing things will be different
Or leaving problems on the shelf
I wish I didn't need to get help
But I do
But I do
Oh-oh-oh
 
気持ちを内側にしまってきた
くそみたいなことが高く積もったときに開けてみた
彼女がいると泣きやすかった
ぼくから言葉がこぼれて、もう変装は必要なくて
ぼくが誰かだった日々を思い返すと
いつもお腹が空いていた
今や、ひどくお腹いっぱいだ
ただ自分を嫌うために何ヶ月も費やして
状況が変わることとか
問題を棚に放置することとかを望み続けられなかった
ぼくが望んだのは助けを借りる必要がないことだった
でも必要だった
でも必要だった
 
I been so hard on myself, yeah
Even my family can tell
And they barely saw what I felt
I wouldn't wish this on my enemy or anyone else
 
ずっと自分にひどく当たってきた
家族でさえわかるくらい
彼らにもぼくが感じてきたことを少し見えた
敵とか誰か他の人とかにこういうことがあって欲しくないな
 
It's not the same
(It's not the same)
(It's not the same)
It's not the same as before
It's not the same anymore
And it's fine because
 
もう同じとはいえない
(もう同じとはいえない)
前と同じじゃない
もう同じじゃない
それは良くて、だって
 
I've learned so much from before
Now I'm not short on advice
There's no excuses at all
No point in feeling upset
Won't take my place on the floor
I'll stand up straight like I'm tall
It's up to me, no one else
I'm doing this for myself
It's not the same anymore
It's better
It got better
It's not the same anymore
It's better
Yeah, yeah
Oh-oh
Oh-oh-oh-oh
 
たくさんのことを学んだから
今は助言が不足しているわけじゃないから
言い訳なんてないんだよ、
動揺することに意味なんかない
ここではぼくの代わりをしないで欲しい
背が高いように真っ直ぐ立つよ
ぼくの問題で、他の誰かの問題じゃない
前と同じとはいえない
もっと良い
良くなった
前と同じとはいえない
もっと良い
 
(語句・注釈)
simple:シンプルな 
simpleはポジティブな意味(洗練されているなど)もあればネガティブな意味(つまらないなど)もあり、ここでは、「顔からよろこびを失う」ことと対比されているので、ポジティブよりにとっても良いかもしれないが、その多義性を生かしているとふまえ、シンプルな、と訳出した。
 
shame:恥、残念
普通に、残念の方が良い気がしてきているところもあるのだけど、割と強いニュアンスを汲める気もする。悩みどころです。
 

分析

 
 便宜上、和訳のところで8つに分けたので、それに従って、考えていこうと思う。
①自分の昔の写真を見返し、安全なところに取っておこうとする「ぼく」は、それが失われることを少し怖がっているのかもしれない。その写真は今と比べて見た目としては良いのだろう。その顔が年を取ることによって変わり、ひどい見た目だと「ぼく」は思う。それをa big shameとさえ表現する。それは自分をいたずらに責めるような表現であるし、それを「ぼく」は知っている。ネガティブな感情が口から出ては、自分をひどく落ち込ませてしまうことを。あるいは、そうやって自分を落ち込ませていることそれ自体にも、がっかりしているのかもしれない。「ぼく」は、自分の見た目や表現に関するネガティブな感情を受け入れる理由を、時間をかけて見つけたようだ。
 ・reasonに注目すると、この詩では、頻繁にbecauseや'causeといった理由を表現する前置詞が出てくる。日本語と違って、どこまでが理由かを明示する必要がなく、その辺りも特に日本語話者にとって楽しめるかもしれない。この詩はある種の理由づけの歌でもあるのだ。
 ・'It's a big shame'と対比される形で、あとで'It's not a shame'が出てくることに注意したい。
 
②この時点では、'It's not the same anymore'ということは少し悲しげなニュアンスが含まれているように感じる。①のように年をとり、見た目が変わってしまった、その顔を受けた指示代名詞としても受け取れる。顔から喜びは失われ、人生は退屈になった今、昔の幸せを考えたとしても、状況の困難さを考えると、「もはや同じではない」という事実からは逃げられない。でも、それは恥ではないのだと言う。
 ・Itが何を指すのかは、見た目だったり、状況だったり、「ぼく」自身の何かだったりするのだろうが、明示はされない。
 
③まずこの一節は、②の最終部を受けて、'it's not a shame'の理由を説明するものになるはずなのだが、クリアな理由を示してはくれない。ここでなされるのは状況の困難さに関する記述である。人々は、自分のベストな顔に対して「メイク・アップ」してくれる。それは善意かもしれないが、耐えているのだから、「ぼく」にとっては嬉しくないのだろう。理想を押し付けてくることは耐えられるものではないが、「ぼく」はずっと耐えてきたようだ。その理想化がおかしな方向に向かったら普通は止められるのだけど、「ぼく」は止められなかったような言いぶりである。4時。休みたい「ぼく」に対して、人々はドアをノックするように、「ぼく」をうんざりさせてくる。自分の振る舞いに対する眼差しが、自分を抑圧させていることを知っているが、「ぼく」はみんなが求めるように振る舞ってしまう。休みたいが、明日のことを考えると怖いようだ。
 ・wrong way とかanother wayといった表現に見られるように、「ぼく」は、自分の進む道が何か間違っているようなものとして捉えているようだ。
 ・畳み掛けるようなwordsの詰まっている感じは、「ぼく」の不安感を示すようにも見えるし、誰かに吐き出しているようにも見える。
 
④明日のことを考えるのが怖いのは、もう同じではないから。ここで③の冒頭部を考えると、my best faceをどのようなものと捉えているのだろうか。理想を押しつける前のものをbestだと思いつつ、そこにはjoyがないことを知っている。そのあたりに自身の現状に対するアンビバレントな気持ちが含まれている。何度も'It's not the same'と歌う姿からは、「ぼく」がみんなに弁明しているようにも、「ぼく」が自分に言い聞かせているようにも取れる。それはコーラス——コーラスは、歌い手を聞き手に変換する——の効果でもある。
 
⑤内側にあった気持ちは、人を目の前にして涙とともに、disguise(=変装)ではない言葉となって溢れ出す。そのような歌詞は、今までの歌詞の真偽を宙吊りにする。例えば、最初の a big shameと捉えたのは本当だったのだろうか。それは誰かを欺くための変装だったのではないか。
 あるいは③の冒頭の化粧の話とつなげて読めば、内面に秘めた自分そのもののようなものが溢れ出したと言えるだろう。変装してsomeone elseだった自分がしていたことは、問題の解決でも棚上げでもなく、自分を攻撃することでしかなかったことに気づいた。「ぼく」は助けを借りることを拒もうとしていたけれど、必要だったことに気づく。
 ・hungryの両義性。お腹が空いているから、イライラしたのかもしれないけれど、何かを求めるエネルギーになったのかもしれないし、お腹が満ちたのは、満足したかもしれないけれど、エネルギーがもはやないことの象徴でもある。
 
⑥自分にきびしいその態度は、家族にさえわかるくらいのもので、苦しかったのだろうと思わせる。そのような気持ちを他の人に味合わせたくないと素直に表現される。
 
⑦ここで 'It's not the same'とくると、自分にきびしかった態度からの解放を重ね合わせて聞くことができるだろう。そのような'It's not the same'の少しポジティブな色のつき方は、'it's fine'という強いポジティブな感覚へと変わっていく。
 
⑧たくさんのことを学び、アドバイスも不要になった「ぼく」は、言い訳なんてなんてないとか、動揺することに意味がないとか、少し強い言い方で自分の成長を認めているように見える。しかし、この二つの言い方は結構面白い。
 ・There's no excuses at all は一見すると、「言い訳なんかしてはならない」みたいな意味にも取れるが、一方で、「言い訳なんて一つもないよ」みたいな、言い訳というネガティブな意味づけをしなくても良い、というような意味にも取れる。それはこの歌がreasonをめぐる歌であることとも響き合っている。
 ・No point in feeling upset も、upsetすること自体を禁じているようにも見えるが、そういう感情に理由なくなってしまうことを肯定しているようにも取れる。
 「ぼく」は自分の問題に背筋をただして取り組めるようになった。少なくともこのフロアで、この歌を歌っている「ぼく」の代わりは誰もいないのだ。'It's better’ と言うために、どれだけの勇気が必要だったのだろう。
 
 
 
◇同じであることとか、同じでないこととかについて
 'It's not the same anymore'という言い方からは、基本的には前あったものへの執着というか、変わらないままでありたいことを求める姿勢が読み取れる。確かに、そういう部分はある。若いままでいたいと思うことや、無垢な認識をし続けたいと思うことがある。でも、同じであることも、ぼくは怖いと思う。自分がいつまでもひどい自分であることとかが、怖くなってしまう。だからこそ、'It's not the same anymore'が少しポジティブに響く瞬間があって、最終的に 'It's better'と言い切られたときに、自分の人生や状況に対する意味づけをガラッと変えてくれるような感覚がある。それは音楽的にも広がるような感じのする部分だからとも言えるけれど、すごくいいな、と思う。
 
◇'I wish I didn't need to get help'について
 英語の詩/詞に触れるときの一つの楽しみは、簡単には言い表せない言い方が、言葉を尽くさなくても言えるんだという驚きにあると思う。この部分は特にそうで、訳出すると、「ぼくが望んだのは助けを求める必要がないことだった、でも必要があった」となるわけだけど、かなりたくさんの音数を費やさないとこういうことはいえない。でもこういう心理はよくわかる。誰かにSOSを出すのがためらわれる気持ちを、いくらか論理的なレイヤーに入れたらこういう表現になるのだろうと思う。そして特に、「でも必要なんだ」みたいなことを、'But I do'だけで表現できることの気持ちよさみたいなのは、ネイティブでない自分が享受しうる気持ち良さだと思う。
 
 この歌については、"Pony"の9曲目の'It Gets Better'と響いているような可能性もある。また、歌い手の彼自身に引きつけた読みもする余地があると思うし、そういう批評を行っているものもあるが、ここではテクストから読めることだけを導出したつもりである*1。英語能力に関しては全く自信がないので、意味をめぐる語単位のミスがあるかもしれないから、仮訳としてこれを読んでいただきたいし、よりナチュラルな訳を求める人にとっては不満に思われるかもしれない。日本語ネイティブの方にこの歌に興味を持っていただけたり、あるいは、すでにこの曲を知っている日本語ネイティブの方の理解を助けたりできれば、ぼくはうれしい。
 
 
 
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