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贈与と聖物:感想

 ◇森山工2021『贈与と聖物——マルセル・モース「贈与論」とマダガスカルの社会的実践』東京大学出版会.
 
 
 森山は『贈与論』の訳者でもあり、マダガスカルをフィールドとするフィールドワーカーでもある。マダガスカルに関する本を読むのははじめてだったが、『贈与論』自体は森山の訳で読んだことがあり、美しい装丁が気になって手にとり、年末にゆっくり読んだ。
 
 高校の時、ある教師が、最も手が掛かる生徒は、自分が何がわからないかもわからない生徒だと言っていた。そういう意味では、ぼくは『贈与論』に関して同じような状態だった。大学3年生の時にぼくが読んだときのメモには「贈与という行為をいろいろな角度から説明しているけれど、同じことをずっと言っているような感じがする」と書かれていて、『贈与論』に対して何か面白い疑問を提示することのできる状態ではなかったようだ。
 
 それでも『贈与論』を読んだ後は、なんか「贈与」が大事な感じがして、友達に急にプレゼントを贈ってみたり、自分が損をしているような感覚を、「これは贈与だからいつか返ってくる」といった具合に埋めてみたりといった形で、世界の見え方が変わったように思う。『贈与論』を読む前と後で、世界に対する認識が変わっているならば、もしかしたら実践のレベルでも何か変わったのかもしれない。そういう意味では重要な書物だった。
 
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 この本における第一に重要な指摘は『贈与論』には「贈与」にも「交換」にも定義がなされていないというものである。
 
 わたしに「贈与論」を複雑で多面的なテクストと思わせる最大の要因がある。それは、「贈与論」における定義の不在である。もう一度、その正式タイトルを確認するなら、それは「贈与論——アルカイックな社会における交換の形態と理由」である。少なくともこのタイトルには、「贈与」ならびに「交換」が主要なテーマであることが明示されている。そうであるにもかかわらず、「贈与論」には、「贈与」についても「交換」についても、定義が示されていないのである。
 
 確かに…と思った。何が贈与で、何が交換かをわからなくさせていたのは定義の不在だったのか!例えばお返しを明らかに期待している贈り物があったとしてそれは本当に贈与と呼べるのか、みたいなことを考えていたのだが、森山の整理によれば、それは以下のような弁別ができるようだ。
 
 (贈与が)「交換」に転化するのは、一方が他方に、たとえば次のようにいった瞬間である。「あなたの誕生日にはプレゼントをあげたのに、わたしの誕生日は無視するわけ?」
 
 すなわち、何かを返礼するという義務が要求という形で明示されたときに、贈与は交換に転化するということのようだ。逆に言えば、贈与として解釈されていた行為は、お返しの要求をした瞬間に、贈与としての価値を失うような行為と言えるだろう。
 
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 さらに、重要な指摘として、贈与論には「譲りえぬもの」「聖物」という裏テーマがあるのではないか、という指摘である。モースの以下の文を参照して、
 
 何かを誰かに贈るということは、自分自身の何ものかを贈ることになるわけである。
 
 「すべて」ではなく「何ものか」を贈るということは、贈ったのちに「残余」が手元にとどめられているということなのではないか、と森山はここで解釈していくのだが、この大胆な反転にワクワクさせられた。贈与されるものと同時に贈与されないものがあること、ここから森山は、自己を生成しそれに対する他者の承認を得るというかたちで贈与行為を説明していくのだが、これに関しては、実際に森山の立論を読んで考えていった方が良い。
 
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 プロローグとエピローグは、「概念」や「分析」によって、ある発話の意味が大きく違って見えるというような、人文学の凄み・面白みを伝えてくれるエピソードからなっている。
 
 この本を読んで、自分の認識枠組みはどう変わるのだろう。モースがギフトの「モノ」に注目していたのならば、森山はギフトする「人」に注目している。ぼくは、何かものをあげるたびに、自分を作り出していることに気づくのかもしれない。どのような変化がこの本を通じて起こるのかが、今から楽しみである。
 
 
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 この本に関しては小川さやかさんが読売新聞で書評を書いている。
 

www.yomiuri.co.jp

 

 また表紙のイラストはパウル・クレー「黄金の魚」(1925)。詳細な絵の全体像は以下からアクセスできる。

 

 

online-sammlung.hamburger-kunsthalle.de