なぞる

なんか書いたやつ

國分功一郎のファイト・クラブ

 ファイト・クラブAmazon Primeで見た。友達が面白かったと言っていて、気になっていた。
 
 自分の感想を言うと、「ぽかーん」という感じ。終盤の仕掛けのあたりで、どんどん世界が内側に閉じていく感じがして、そこで置いてかれた。でも、それを含めても面白かった。
 
 
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 國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』でファイト・クラブを参照しながら、消費社会について論じている(國分 2015: 159-171)。この記事ではその箇所を検討していきたいと思う。なお、この記事ではあらすじは飛ばすので、たとえばWikipedia*1などを参照して欲しい。
 
 ここでは、ボードリヤールなどを参照しつつ、消費とはモノに付与された意味や観念、記号に対して行われる事態であることが説明されたのち、そのような消費社会と退屈の関係を論じるために、「ファイト・クラブ」が参照される。
 
 これは消費社会とそれに対する拒否とが陥る末路を、悲喜劇的な仕方で見事に描いた作品である
 
 このように評したあと、主人公(I)が暇なき退屈をしていると論じ、それをブランド品の消費によってやり過ごそうとしているとする。その後の自助グループへの参加=苦しみの擬似経験や、ファイト・クラブの発生によって現実=苦しみを味わうことによって、解放感を得ようとしている、とする。それらは以下のように整理されている。
 
 (1)現実離れした消費のゲーム——ブランド狂い
 (2)現実(苦しみ)のシュミレーション——難病患者ミーティング
 (3)現実(苦しみ)の現前——ファイト・クラブ
 
 まず、一つ注意を加えるならば、ファイト・クラブで挙げられているミーティングは必ずしも難病とはいえない。多くはがんや依存症であり、少なくとも日本における「難病」ではないことは指摘しておきたい。
 
 その上で、この構図的整理はとても興味深かった。記号に対する消費から、より記号的でないもの=現実へと向かおうとする主人公は、確かに國分の言うところの「浪費」へと向かおうとしているのかもしれない。この映画を見ればわかるように、ファイト・クラブは「ストップ!」と叫べば終わるし、身体は疲れるから、ずっとし続けるわけにはいかないからだ。
 
 さらに、國分はタイラーを評するなかで、タイラーもまた、消費社会の論理に従って消費社会を拒否していると指摘する。つまり、タイラーは消費社会をただ拒絶しているだけであって、それに代わる明確なビジョンを持っていない。彼が持っているのは単なる破壊の構想であり、消費社会をただただ壊そうとすることこそがタイラーの企みであるのだ。
 
 ここでさらに面白いことに、國分は、消費社会はタイラーをも商品にしてしまうかもしれないとし、脚注でチェ・ゲバラがキャラクター扱いされていることに触れている。これはこの映画のアダプテーションを考える上で面白い指摘だと思う。いくつかの個人のブログで、タイラーのセリフや、その容姿に憧れている様子のコメントが散見されるが、これはタイラーというキャラクターをそのまま消費する営みと言っても良いだろう。
 
 タイラーのような消費社会のミラーイメージは、消費社会が自らの存続のために作り出しているとすら言うことができる。
 
 そのような読みを踏まえると、消費社会の破壊さえも消費社会の論理に取り込まれているだけでなく、「消費社会の破壊」を消費することまでもを、消費社会における欲望として捉えることができるだろう。それだけではない。國分が注で触れているように、苦しむことの欲望、組織されることの欲望、規律されることの欲望もまた、現代の社会における隠れた欲望としてこの映画では表象されている。
 
 
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 最初にぼくの感想として、「閉じていく感じ」という評をしたのだけど、それこそが消費社会というモチーフにおける閉塞性、あるいは外に行こうとすればするほど内側にいることに気づかされる感じと響いているのかもしれない。様々な欲望が喜劇的に描かれるたびに、自分もまたその欲望を追体験したくなるのだけれど、それを必死で食い止めようとする自分がいることに気づく、そのこと自体が分裂的なこの映画のモチーフと重なって感じられた。
 
 ◇國分功一郎2015『暇と退屈の倫理学 増補版』太田出版.