なぞる

なんか書いたやつ

げらげら

 電車を見ると、亡くなった友達のことを思い出してすぐに泣いてしまうこと。さっきまで覚えていたことをすぐに忘れてしまったり、知り合いの名前が思い出せなくなったりすること。歯磨きをしていたはずなのに気づいたら歯ブラシを失くしてしまったこと。ぼくの生活は、そんなことばかりで、きっとすこし、生きづらい。

 

 そんなぼくの話を聞いて、友達がげらげら笑ってくれるとき、とっても救われたような気分になる。こんな話を打ち明けたら、きっと重い雰囲気を作ってしまって、まわりに迷惑をかけてしまうと思っていたから、ずっと言い出せずにいた。あるいは、そういう話をしてしまった途端に、「自分とは全く異なる、かわいそうな人」として扱われてしまうのではないかと思って怖かった。そういった緊張をほぐしてくれるのは、友達の、心からおかしくてたまらないというような顔つきと、世界が割れてしまうのではないかと思うほどの笑い声。げらげら。わはは。ひーひー。

 

 人が笑うのはそれが「おかしい」からだ。おかしいというのは、ずれているということだ。笑いは、ぼくがずれていることを認めてくれる。

 

 生きづらい。しんどい。そんな悩みを話せば、「みんなしんどいんだからがんばろう」というような答えが返ってくる。あるいは、「きみよりしんどい人は世界に山ほどいるよ」というような答えが返ってくる。「みんな同じ」という考え方は、こういうとき、とっても暴力的だ。困っていることは全て個人で解決できる問題として、まなざされる。

 

 笑い声は、それ自体が、ぼくと相手がずれていることを指し示して、認めてくれる。ぼくとみんなの身体が違うこと。そんな当たり前のことを、やさしく、指し示してくれる。

 

 それと同時に、矛盾するかもしれないけれど、笑い声は、ぼくと相手が「同じだ」ということも指し示す。笑いにはどこかに共感が流れている。

 

 重い話を打ち明けたとき、悲痛な表情をされて、「そっか・・・」と黙られてしまうと、ぼくはなんだか相手と急に離されてしまったように感じる。さっきまで一緒の地面に立って会話をしていたはずなのに、突然ぼくは違う地面に、「かわいそうな人」が立つ地面に立たされてしまう。「みんなと違う」という考え方もまた、暴力的である。世界から排除して、ぼくをひとりぽっちにする。

 

 一緒に笑うこと。お腹の振動が共鳴しているような感覚が、ぼくをみんなの世界に連れもどしてくれる。同じ地面に立っている人間として、承認してくれる。

 

 「同じ」と「ちがう」という両義性を持つ笑い声は、当然、ある時にはぼくを世界から排除するし、ある時にはぼくを世界に閉じ込める。だけど、生きづらさを笑うことが、暴力的に機能するとは限らない。逆に、ぼくの緊張をやわらげて、同じ世界を生きる仲間としてぼくを迎え入れてくれることもある。

 

 笑い。ぼくはそれを、痛みを個人化する道具ではなくて、連帯の道具として使いたい。だけど、それがいつもうまくいくとは限らない。笑うことは怖い。それが相手を追い詰めてしまうことがある。そう考えていくと、笑えなくなってしまう。しかし笑わないことも、相手を孤独にしてしまうことがある。

 

 ではどうすれば良いのだろう。きっと答えはない。笑うことはある種の賭けだ。どっちに転ぶかわからない。ふふふ、むずかしいね。しんどいね。でも、答えのない世界を一緒に笑っていこうよ。げらげら。