なぞる

なんか書いたやつ

飲み会について

むかし、飲み会とは行為から意味が剥がれ落ちる場であり、そこに美しさがあると書いたことがある。ぼくはお酒が飲めなくて、それでもこの文化に肯定的な意味を見出したくて、書いた文章だったのだろうと思う。
 
 
酔っ払いの言葉に過剰な意味を読み取ることは、あまり有益ではないと直感的に思う。たとえば、お酒に酔っ払った異性に、「〇〇さんのことが好きです〜」とか言われたとしても、それを真に受けることは間違っている。この「間違っている」という認識そのものが、ぼくたちの〈飲み会〉を成立させているのではないか、と思う。
 
 
つまり、飲み会の参加者は、お酒に酔うことで、あるいはその場にいることによって、自分の発言の信用を敢えて落とし、責任を免れている。そのことが、発言や行為とその意味の強い結びつきを緩めている。
 
 
もっと言うならば、その認識をぼくらは共有しており、だからこそ普段言いにくいことをひとは飲み会で語る。自分の発言に責任を過剰に持つことなく、話すことができる場。間違った表現でも、流れていく場として活用されているのではないか。
 
 
自分の発言に責任を過剰に持つことなく、話すことができる場。飲み会では、ことばの所有権や管理感覚をいつもよりも失っているという感覚がある。
 
飲み会にいると、ことばが浮いているという感覚に陥ることがある。それぞれの人々の発言が宙に浮いている。誰が発したのかもわからないことばが、誰に受け取られることなく、テーブルの上を雲のように流れ、いつの間にか空気に溶けてゆく。ぼくはぼんやりとそれを見ている。
 
暴走族が集団で同じように走行するのは、仲間の走る姿に自分を見ることによって、鏡のような空間を作り出し、ある種のゾーンに入るためだと読んだことがあるが、飲み会も自分と同じようにみんな飲み、酔っ払っているという感覚を視覚的に得ているように思う。
 
大人数で飲めば飲むほど、友達ひとりひとりの間に存在している違いは無視され、「みんなで飲んだ」という感覚になっていく。雰囲気の共有こそが重要なのだ。同じ経験を友達としたという感覚が、残ること。その履歴が重要なのだ。
 
 
 
 
飲み会は小さな旅である。ともにどこかの居酒屋で時間を過ごし、酔っぱらうという同じ経験をする。その場のノリがどのようになるかはわからない。飲み会に行く前の軽い憂鬱。それはコントロール不能なノリに身を任せることへの不安のことである。
 
 
飲み会に目的地はない。浮かんでいる言葉や行為の集合に、ノリに、身体を引っ張られて、ぼくらは動く。何かを達成するためではなくて、その空気にそれぞれが踊らされていることこそが、飲み会という現象を考える上では重要である。
 
 
そして、それは聖なる経験ではないか。うつくしい経験ではないか。自分の意思ではなく、誰かの意思でもなく、その場に流れる何かが、ぼくらを動かすという感覚に、ぼくは聖なるものを感じる。
 
 
あのとき、ぼくは確かにきみと握手をして、「今まで本当にありがとう」と言った。それは確かにぼくの意思で、それは確かに飲み会という場がそうさせたのだった。それはぼくのことばであると同時に、ぼくの外側からやってきたことばであった。二度と再現できない経験の履歴がお互いの身体に残ることを、ぼくは本当にゆたかだと思う。
 

第三滑走路13号 感想

 ボリュームがまずすごいですよね、全部で175首読める。だいたい歌集1冊で300首前後だと思うので、歌集半分を読んだくらいの(量的な)満足感をネットプリントで得られていると考えると、すごいことだなあと思う。
 
 連作としても工夫されているのだけどわりと一首単位で鑑賞できそうな歌が多いので、好きな歌・気になった歌の感想を述べたい。
 
 
 スティル・ライフ あと何回の乗り換えで地下鉄はこわくなくなるだろう/青松輝「still life」
 
 地下鉄は乗り換えにおいてのみ姿を現す…というと言い過ぎだが、基本的に地下鉄は地上を走らないので、地下のホームで見ることになる。そういう地下鉄におけるモチーフがさらっと指摘されつつ、重要なのは、乗り換えの場面においてぼくらはは地下鉄の「止まる」姿と「動く」姿を繰り返し見ているということだと思う。止まった姿の一回性(=静物性)と、それが動き出すという反復性(=まだ・生活)が「スティル・ライフ」という語によって受けられている、と見ることができる。
 
 サンキスト・オレンジ 電車を僕はたんに移動手段だと思っている/青松輝「still life」
 
 前掲歌の韻律構造をひきづる形で、5音でナカグロで切れる構造を有しつつ、初句9音的に読みたくなる。するとなんとなくこんな感じのリズムを捉えることができる。
 
 サンキスト・オレンジ / 電車を僕は / たんに移動手段だと / 思っている
 
 この韻律に自分がたどり着くのは、意味的な要請が大きくて、「たんに」というところに強意のニュアンスが読み取れるので、そこの文頭を強く読みたくなるからだと思う。
 それはそれとして、電車における様々な詩情を排して、「たんに移動手段」と定義することによって逆に詩として成り立たせてしまうことの鮮やかさがすごい。移動手段という冷たい言い方が、電車の詩情を逆に強めるというか、ある場所からある場所へと(はやく、とおくに)「僕」が移動する経験のゆたかさを引き連れているのがおしゃれだなあと思う。
 
 HOTELあさひ 海岸沿いの居酒屋うみ 仲良しの同日取り壊し/丸田洋渡「顛末」
 
 名付けに関する歌なんだろうと思っていて、朝日とか海とかそういう詩情を含む言葉がホテルや居酒屋の名前に選択されることをどう思うのかが、短歌の上に置かれることでちゃんと考えなきゃいけない気になる、みたいな効果があると思う。多分看板に書かれたその文字を見ても、ぼくらはなんの感慨も抱かないわけだけど、よく考えるとその建物と場所と名前と意味が一度にくっついた何かを感受しているはずで、その接着剤のような「言葉」について思いを馳せる、ことができる。「仲良し」という関係性自体が、建物に名前をつけるようなものであることが示唆されつつ、誰かと街を歩いた記憶が歌の中に刻み込まれている感じが郷愁を誘う。
 
 半分は狂う・半分は瞬く・星の話なんてしてないよ/森慎太郎「スルースキル」
 
 主題がわからないと、どうしてもなぞなぞのようになってしまって、歌の読み味がスッとしないことが多いのだが、こう書かれると、主題なんてなんでもいいやという気持ちになってくるというか、何の話をしているかわからないのだけど、そこに想像力が行かないような作りになっていて、会話的な面白さがあると思う。話し言葉を短歌に乗せると、話し言葉を文字にすると面白いみたいな回路が生まれがちなんだけど、それを巧みに回避していて、純粋に会話をしているときの耳の感じで、短歌を楽しめることがうれしい。
 この歌を読むときに脳で起こっていることをどう表現したらいいかわからないのだけど、会話内の微妙な空隙(=不明点)がクイズのように見えてしまう瞬間に、その空隙が思っていた答えとは異なることがわかるが、トピックが別のものに移っていってしまう感じがして、こういうことってあるよなあみたいな納得をすごく高い次元で起こされているのだと思う。
 
 するとどうだ、きのうの夜が破かれた絵画のように聴こえてこないか/森慎太郎「スルースキル」
 
 「するとどうだ、〜か」という構成が短歌に入れられることによって、言い回しそのものの面白さが見えてくるというのが読みどころなのだと思う。何が起こったのかは明示されないのだけど、これもなんか、内容が詩のことばで書かれている感じがするからか、そこに想像力がいかないという技を使っていて、想像力を拡散させないことによって詩を成り立たせる、みたいなところが、独特の読み味につながっていると思う。まさにこの2首は「スルースキル」が作者にも読者にも活用されている。
 
 
 「Ephemerality」については詳しく触れる余裕がないのだけど(疲れてきたので)、一首だけ引用すると、
 
 Downers 青空系の音楽のひっきりなしの転調を 聞け/丸田洋渡「Ephemerality」
 
 はすごく良いなと思って、英単語を短歌に導入する作品が丸田さんの最近の作品では多いように感じていて、意味体系としても発音体系としても異なるものを乗せるのは難しいだろうと思うのだけど、[dau:nahz]みたいな発音の[dau] にアクセントが来るので、普通の初句切れよりすごく切れ方が激しくなるのが面白いと思う。[z]の子音だけの音から「あ」の音に戻すのがすごく大変な感じ、これだけですごく特殊な韻律のあり方を作っていると思う。
 最後の「転調を 聞け」は逆に、一字開けしようとするとどうしても口がすぐに「聞け」と言ってしまうようなリズムになっていて、複雑なことをしなくても、リズムをこうやって動かせることが面白い。だからこそ、「ひっきりなしの転調」なのだと思うし、聞くべきものも、メロディではなくて、転調そのものに転位されている。
 
 
 三人とも決してオーソドックスな歌の作りではないので、まだ深く読めていない歌が多いのですが、すごく刺激を受けました。ありがとうございました!

佐藤佐太郎「寒房」鑑賞(歌集『歩道』より)

図書館で佐藤佐太郎集を借りて、読んでいる。写実的な歌の精度が高く、写実的なことを短歌でやることの凄さを改めて感じている。
 
ぼくにとって、写実的な歌を読むという体験は、現実に存在する素材のゆたかさに気づくという体験というよりも、むしろ、現実に存在する風景がこのような形式で言いうるのか、という言語的な気づきの体験としての比重が大きい。いわゆる「気づきの歌」が現実に対する解釈のあり方に魅力があるとするならば、写実的とされる歌は、現実を言語に落とし込むときに生まれる美しさに魅力がある。その魅力には、短歌という詩型が大きく寄与しているのだろう。これまでに見てきたものをこれまでにはあり得なかったかたちで表現するというあり方において、写実的な歌はそうでない歌と変わらないばかりか、より挑戦的なことをしているとさえ言える。その言語の形式の水準で新しさや美しさを読者に感得させなければならないからである。
 
第二歌集(出版されたのは最初の歌集)『歩道』より最初の連作である「寒房」を見てみよう。
 
 
寒房
 
敷きしままの床(とこ)かたづくるもまれにして家に居るけふは畳(たたみ)つめたし
 
街空(まちぞら)にひくくなりける月光(つきかげ)は家間(いへあひ)の路地(ろぢ)にしばし照りたる
 
いましがた水撒(ま)かれたる巷(ちまた)には昼ちかづきし冬日(ふゆひ)照りをり
 
(かたむ)きし畳の上にねむり馴(な)れなほうとましき夜半(よは)にゐたりき
 
 
敷きしままの床(とこ)かたづくるもまれにして家に居るけふは畳(たたみ)つめたし
 
敷いたままの布団を片付けるのがまれなほど、家に居ることのない主体が、畳のつめたさに思いを馳せる。布団の敷いていない和室は、思ったよりも寒かった。眠る場所でも食べる場所でもなく、ただ居る場所として姿を見せる「家」や「部屋」というモチーフの、空っぽな感じが際立っている。
 
「家に居るけふは/畳つめたし」という定型的韻律と、「家に居る/けふは畳つめたし」という動作で切れる形の韻律の二つがさりげないかたちで並存しているところも良くて、意味的には前者の韻律を捉えると論理的な感じがするのだが、後者における「居る」ことにフォーカスが当たっている感じもまたよい。
 
街空(まちぞら)にひくくなりける月光(つきかげ)は家間(いへあひ)の路地(ろぢ)にしばし照りたる
 
街空や家間という語彙による圧縮が素晴らしい。何か熟語を作り出すことによって、短い詩型に景を落とし込むというやり方のようだが、語彙の選び方が絶妙だ。和語的な熟語の組み立てが巧みだと思うし、和語のなかでも柔らかい音の言葉を持ってきてくるのも良い。「ひくくなりける」による時間帯の限定の仕方も、月という天体の特性によって限定しつつも一意に同定できず、しかし、その景だけははっきりわかるようにできている。月光が路地を照らす時間のスパンを、過度にドラマチックにせずに、「しばし」でとどめる歌の作りによって、見覚えのある光景を綺麗に切り取っている。
 
いましがた水撒(ま)かれたる巷(ちまた)には昼ちかづきし冬日(ふゆひ)照りをり
 
今を切り取ることによって、より大きな世界を描写するあり方は、やはり主体の解釈の妙というよりも、言語による驚異を感じさせる。雪が降った道は、夜や朝に水を撒いて溶かすと、凍結してしまうから、昼に撒くのが良い。だから、昼に近づく時間帯に、水を撒くのだが、その語順が論理の順番とは異なることによって、写真のような立ち姿を見せている。すなわち、写真という現象は、因果性のあるものをひとつの平面に置くのだ。氷雪を溶かす冬の光を迂遠な形で表現することで、写真的なものの奥にある様々な現象を見せている。
 
(かたむ)きし畳の上にねむり馴(な)れなほうとましき夜半(よは)にゐたりき
 
和室を上から見ているような構図をこのような形式で作れることに感動する。畳がひとつ傾けば、すべて畳は崩れるはずで、そのような図像的な散乱の中に主体は普段寝ているのだが、それでもやはり、この部屋に夜半に起きると、なにかうとましい感覚を覚える。住み馴れた部屋というものの持つ、自分を疎外する感覚を指し示す下の句は、写実というよりも身体に訴えるようなやり方で、「部屋」というモチーフの自分を閉じ込めつつ、自分を迎え入れない不気味さが表現されている。
 
「寒房」の連作構成も絶妙で、2首目と3首目で外のゆたかな光景を描出することによって、部屋に回帰せざるを得ない主体(あるいは人類全般)を描き出す。特に4首目はかなり連作に寄り掛かった歌で、連作として歌を構成しているような印象を受けた。

「永訣の朝」再読ノート

久しぶりに宮澤賢治の『春と修羅』を読み返している。ぼくがこの詩集を読んだのは、高校1年生のころだった。かっこいい響きのタイトルに魅かれて、図書館でなんとなく手にとった。
 
そのころの私は詩というものにまだ関心がなかったから、高校生のときに読んだ数少ない詩篇のひとつと言って良いだろう。だからこそ、強く印象に残っている。
 
そもそも旧仮名遣いさえちゃんと読めなかったので、基本的に読み取れるはずのことさえ読み取れてなかったと言えるだろうが、美しいことが書いてあるという感覚だけがあった。久々に読んで、確かに今でも難解な部分は多いものの、詩情がより具体的なイメージを伴って見えるようになったことがとても嬉しい。
 
久しぶりに読んでも、心を動かされる詩はあまり変わっていなくて、やはり自分は「永訣の朝」に強く心を動かされる。高1の自分は、親しい人との死別をそもそも経験していないのだが、やはりなにか「別れ」のようなものに敏感であった。それは転校が多かったからかもしれないし、そういう気質であったからかもしれない。
 
***
 
まず、第一に素晴らしいのは、空の暗さとそこから落ちてくる雨雪の明るさの対比であり、その空間の異様さに、死というモチーフや聖性を重ねると、自然描写がよりゆたかなものとして見えてくる。
 
うすあかくいつさう陰惨な雲から
みぞれはみぞれはびちよびちよふつてくる
 
 
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
 
陰惨な雲から降ってくるみぞれや雪の真っ白さ、そもそもその対比的にさえ見える天気のマジックが、永訣という事実の暗さと明確さをたたえている。写実的な天候の描写が、ある事実の器として機能することはよくあるが、複雑な感情に対する器としてこの上ないものと言えると思う。
 
***
 
次に素晴らしいのは、詩における時制のねじれである。そもそも、この朝が永訣の朝となることは、妹も主体も予期できないことであり、当然だがこの詩は事実を投影したものではなくて、仮構として再構成された事実である。だからこそ、妹が詩におけるどのタイミングで死んだのかはわからないままであるし、最初から、主体は妹の死を既知のものとして行動するという時制のねじれがおこっている。このことに注目すべきである。
 
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
 
この朝の間に、妹がとおくにいってしまうことは、本当は主体は知らないはずなのに、ここでは既知のものとして、つかの間生きている妹へとよびかけられる。そのことは、死における特別な時制のねじれを逆転したものとして捉えて良いだろう。
 
死んでから訃報がとどくまでの間ぼくのなかではきみが死ねない/吉田隼人『忘却のための試論』
 
他者の死において重要な時間のねじれは、他者が死んでいるにもかかわらず、生きていると考えている時間が存在することであり、そのズレを巡って葛藤がある。この詩においては、妹は生きているにもかかわらず、死の時点を規定された存在として描かれることによって、葛藤する存在を死を受け入れる者から死に向かう者へと移すことによって、妹が雪をわたくしに所望するという展開を作り出していることにある。葛藤は、死に向かう者から死を受け入れる者へと言動を通じて移されていく。その構造が素晴らしい。
 
***
 
素晴らしい点をすべてあげていくとキリがないのだが、最後に妹の言動として、この部分を引用したい。
 
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
 
急にローマ字で挿入される妹の言葉は、仮構たる詩において一層真実に近い部分であり、妹の声として見出されている。
 
あたしはあたしでひとりいきます
 
という意味という注がついているが、それよりもこの表記に注目したい。
 
当然、別れとは、ある存在とある存在が違う場所に進むことであるのだが、ここにおける別れは、主体の動作を伴わない。むしろ、病床で眠る妹こそが、egumoという形で、どこかへと行くという決意を固めている。それもOra Oradeというように、自分という存在を強く自覚しながら、どこかに行こうとしている。この詩が単なる主体の妹の死に対する感傷に留まらない深みを持つのは、妹の主体に対する強い訴えが、他の何とも文脈付けられずに残っているからに他ならない。その声は、いまだ主体とは異なる声として、主体の論理に回収されぬまま存在する声である。主体は、詩の運動によって妹の死を普遍化しようとしつつ、いまだ固有の声とともにあろうとしている。そのことの切実さを受け取りたい。
 
 

鏡のある部屋で——揺川環「鏡を覗く」評

 
家具を入れわれらを入れて狭くなる部屋にもわたしだけの耳鳴り
 
 この歌でかなり心を掴まれる部分があるというか、連作の方向性がバチっと決まっている感じがする。同棲を始め、家具を運び込み、自分たちも当然いて、狭く感じるのだけど、そこにはわたしだけに聞こえる耳鳴りがする。共有できないものがあることと、空間をともにすることが同時にあることに思いを馳せている主体の態度は、ネガティブでもポジティブでもなく、すごくフラットだ。
 
姿見のカバーはずせばその中で小さくカーテンつけている君
 
 これも引っ越しの様子を描いた歌で、この空間把握というか、映像感覚はすごいなと思う。君が長細い姿見のなかで小さく映しだされること、それだけといえばそれだけなのだけど、姿見が、身体ではなく生活とか部屋とか暮らしのようなものを映し出していることへのさりげない気づきがあって、それは誰かと同じ部屋に住むという主体の経験にとってとても重要なシーンに思える。
 
ニトリとかイケアの中で見たよりも家だと家具が大きく見える
 
 この空間把握も面白くて、単純に視覚的な把握としてもわかるし、ただの錯視ではない気がするのも良いなと思う。家具を組み立てたり、使ったりする中で、家具が本来の大きさを取り戻してくるというか、家や人に馴染んでくる感じをすごくさりげなく歌っているように思えて、とても良い。
 
 ここまでは、割と神野さんが『ねむらない樹』で触れている側面というか、生活に対する態度みたいなところを取り上げたし、実際、そこに大きな魅力を感じた。生活=人生にコミットする意志のようなものを感じるというのは本当にそうなのだけど、少し違う回路でその話をしていきたいと思う。
 
 時間に対する認識の話をしてみたい。
 
今バイト終わったよというLINE来て読んでいるうちに遠くなる今
 
もうすぐで夜明けだなって思ってるだけだったのに本当に夜明け
 
 この二首は視点が若干違うのだけど、ほとんど同じ時間認識を示している。というのは、ある時間を指し示すことの困難である。今が今ではなくなってしまったり、「もうすぐで夜明け」が「もうすぐで夜明け」ではなくなってしまうように、時間というものの指し示すことは難しい。そこに寂しい感じがあるのかもしれないけれど、多分そこまでではないのだろう。一首目(家具を入れ〜)同様、そのことをかなりフラットに捉えているように見える。
 
 ある意味ではそのことは二人の関係や暮らしというものに対しても言えるのだろう。ふたりの関係について言い得たことがすぐに言えなくなっていく感じのことを言っているのだ。耳鳴りが聞こえなくなり、カーテンが取り付けられるように。
 
 そしてその時間感覚が物理的にも現出するのは、鏡による効果である。ある物体が見えるというのは、光が少し遅れて目の中に入ってくることである。少し遅れてやってくる今は、はじめから今とは言えなくて、そのような時間が流れている部屋に二人でいることの不思議さや、絶対性を主体はからだで捉えている。
 
サービスでついてきたピザが冷えてゆく君がこんなに笑う夜でも
 
 そりゃそうだ。君が笑っても、ピザは冷えてゆく、当たり前だ。でも、そのことのかすかな不思議さに驚く主体のまなざしは、真剣に生活を生きている者のまなざしだと思う。
 
約束する 君がうがいをするたびにわたしは変顔して映り込む
 
 水を吹き出させるために変顔をするわたし。君との関係性の豊かさを読み取ることができる歌だけど、鏡という一つの平面に同時に映るわたしと君が、なんだか写真のようで、もしかしたら主体は、笑わせたいだけでなく、二人で笑っている姿が鏡に映ることになんだか安心しているのかもしれない。だから、
 
水垢の増えた鏡を覗き込んでやっぱ好きって言い合う遊び
 
 ふたりは直接顔を見るのではなくて、鏡越しに好きと言い合うのだろう。好きなのは、時間がどんどん流れてゆく部屋で、一緒に住んでいること自体なのかもしれない。
 
 誰かとともに暮らすことは、その人との時間や空間を引き受けることであり、そのことに向かい合おうとしている。その主体のしなやかな姿勢にとても好感を持った。
 
 

〈風は何処からきたか?〉

 どうして「風景」と言うのだろう。あるいは、景と風景の違いはなんであろう。そういうことを考えたとき、風は私の身体を撫でるではないか、私の髪をそよがせるではないか、ということに思い到る。風に含まれる強い追憶は、視覚よりもっと原初的な触覚から来ているのではないか、と思う。風景は、目によって認識されたものだけではなく、それが身体や心を通り抜けて生まれるのではないか、と思う。風は本当は身体を通らない。風は身体にあたるだけである。だけど、風の只中にいるときに、風が身体や心を通り抜けて向こうに行くような、そんな感覚がする。
 風とはまさしく詩語である。空気の動きが、どうしてこんなにゆたかな詩情をもたらすかについては、もっと掘っていけばいくつものことが言えるだろう、と思う。
 
 
 〈風は何処からきたか?〉
 何処からといふ不器用な問ひのなかには わたしたちの悔恨が跡をひいてゐた わたしたちはその問ひによって記憶のなかのすべてを目覚ましてきたのだから
吉本隆明「固有時との対話」
 
 風にとって本源的なことは、それが時間と大きく関わっていることかもしれない。時間が流れなくても、そこに空気は存在するが、時間が流れなければ、風にはならない。あるいは空間と大きく関わっていることかもしれない。空間内を空気が移動することによって風は流れる。だから、風は常に時空の産物である。
 
 木々を揺らしたり、自分の身体に当たったりして認識された風に対して、「何処からきたか?」と言う問いを投げかけてみる。それはもちろん返答に窮する問いだ。なぜならば、それは常に時間を措定しない限り、答えようのない問いだからだ。その問いの「不器用」さは、対象を動きそのものである「風」という存在にしたことによって、前面に出ているが、実のところどんな存在に対しても妥当するように思われる。
 
 私は転勤族の子で、「どこ出身?」と聞かれたならば、ぼくの移り住んだ街全てを答える他なく、いつも困っていた。いや、その程度のことを言おうとしているのではない。論理的には〈何処からきたか〉に関して無数の回答が存在するのだということを言っているのだ。時間軸をどこに措定するか、空間把握をどのくらいの粒度にするかによって、答えはいつも変わる。あなたは、トイレから来たかもしれないし、栃木から来たかもしれないし、日本から来たかもしれないのだ。その不器用な問いは、コミュニケーション上返答を必要とするものかもしれないが、もっと本源的な効果に目を向けるならば、それは記憶のなかのすべての動き、その移動そのものに光を当てる効果があるからだ。さらにいえば、「風景」が身体的な感覚を含み込むように、移動に付随する身体感覚、風が、身体の細胞に酸素を送り込むように、「記憶のなかのすべてを目覚ま」す。私たちは本当はそのことを知っている。問いをいかに解釈するかに関わらず、〈何処からきたか〉という問いは常に記憶のなかのすべてを目覚ましてきたのだと、この詩においては言い切られている。
 
 
 問いの跡は、風の跡である。その風に悔恨が見えるのは、主体側の過去に対する態度を投影しているのか、それとも態度以前に過去に対峙する時の本源的反応なのか、どのようにこの構図的・論理的な記述に、悔恨を位置付ければ良いか、私にはわからない。直線的で数学的な「固有時との対話」には時々、孤独だとか、不安だとか、主体の心情を表す用語が突如現れては消えてゆく。そちらを軸にして読み解くこともできるだろう。しかし、主体の経験に根差した感覚を、理論化するところにこの詩の面白さがある。それは当然学問のように精緻な術語系を持っていないが、しかし、心象や生存感覚が理論化されて乾燥されたつなぎ目を有するときに、詩語もまた冷たく、乾いたかたちで美しい姿を現す。そういう意味では、詩情に対する深い信頼が、この詩にあると言えるかもしれない。
 

景を組み上げる:長谷川琳「細長い窓」(ura vol.6)

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 建築的だ、と思う。ひとつひとつの歌が示す景が立体的で、奥行きがある。

 

 図書館が積み木のように明るくてバリアフリーのゆるい坂道

 

 この歌は特に、図書館を組み上げることに力が注がれた歌だと思う。図書館の機能や性質ではなくて、建築的な側面——本棚や本や階が垂直的に積み重なっていること、バリアフリーのゆるい坂道といったやや水平方向の把握——が前面に押し出されている。主体は図書館を「明るくて」と把握するが、そこに屈折はない。明るいのはたぶん、場の機能によるものではなくて、あくまでも視覚的な水準によるものだと思う。

 

 唇を重ねて笑うこともある 段々畑が広がっている

 

 唇を重ねて笑う主体/君の奥に、唇のようにも見える段々畑が広がっている。段々畑の広がっている感じもまた、すごく奥行きがあるが、それはやはり、唇を重ねて笑う人間が前にいるから、段々畑の景がより奥に見えるのだろう。形状と奥行きに注目して読みたくなる。

 

 恋人とふたり卵を溶いている夏の日の暮れ 細長い窓

 

 表題歌もまた、キッチンを描きながら、ふたりの姿を前に置くことによって、空間の奥行きを描いている歌として位置付けられるだろう。ふたりで卵を溶いているという光景にスポットライトが当たったと思ったら、そのキッチンにある光の具合——たぶん、屋内の照明はついていなくて、少しずつ暗さを感じているのだろう——を描き、細長い窓が結句に置かれる。奥行きとともに、細長い窓という垂直方向の効果を加えることによって、立体的となった景が組み上がっていく。空間を閉ざしつつ、その奥を予感させる窓。その窓をあくまでも視覚的な水準で見せるところに作者の巧みさを感じた。

 

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