なぞる

なんか書いたやつ

〈風は何処からきたか?〉

 どうして「風景」と言うのだろう。あるいは、景と風景の違いはなんであろう。そういうことを考えたとき、風は私の身体を撫でるではないか、私の髪をそよがせるではないか、ということに思い到る。風に含まれる強い追憶は、視覚よりもっと原初的な触覚から来ているのではないか、と思う。風景は、目によって認識されたものだけではなく、それが身体や心を通り抜けて生まれるのではないか、と思う。風は本当は身体を通らない。風は身体にあたるだけである。だけど、風の只中にいるときに、風が身体や心を通り抜けて向こうに行くような、そんな感覚がする。
 風とはまさしく詩語である。空気の動きが、どうしてこんなにゆたかな詩情をもたらすかについては、もっと掘っていけばいくつものことが言えるだろう、と思う。
 
 
 〈風は何処からきたか?〉
 何処からといふ不器用な問ひのなかには わたしたちの悔恨が跡をひいてゐた わたしたちはその問ひによって記憶のなかのすべてを目覚ましてきたのだから
吉本隆明「固有時との対話」
 
 風にとって本源的なことは、それが時間と大きく関わっていることかもしれない。時間が流れなくても、そこに空気は存在するが、時間が流れなければ、風にはならない。あるいは空間と大きく関わっていることかもしれない。空間内を空気が移動することによって風は流れる。だから、風は常に時空の産物である。
 
 木々を揺らしたり、自分の身体に当たったりして認識された風に対して、「何処からきたか?」と言う問いを投げかけてみる。それはもちろん返答に窮する問いだ。なぜならば、それは常に時間を措定しない限り、答えようのない問いだからだ。その問いの「不器用」さは、対象を動きそのものである「風」という存在にしたことによって、前面に出ているが、実のところどんな存在に対しても妥当するように思われる。
 
 私は転勤族の子で、「どこ出身?」と聞かれたならば、ぼくの移り住んだ街全てを答える他なく、いつも困っていた。いや、その程度のことを言おうとしているのではない。論理的には〈何処からきたか〉に関して無数の回答が存在するのだということを言っているのだ。時間軸をどこに措定するか、空間把握をどのくらいの粒度にするかによって、答えはいつも変わる。あなたは、トイレから来たかもしれないし、栃木から来たかもしれないし、日本から来たかもしれないのだ。その不器用な問いは、コミュニケーション上返答を必要とするものかもしれないが、もっと本源的な効果に目を向けるならば、それは記憶のなかのすべての動き、その移動そのものに光を当てる効果があるからだ。さらにいえば、「風景」が身体的な感覚を含み込むように、移動に付随する身体感覚、風が、身体の細胞に酸素を送り込むように、「記憶のなかのすべてを目覚ま」す。私たちは本当はそのことを知っている。問いをいかに解釈するかに関わらず、〈何処からきたか〉という問いは常に記憶のなかのすべてを目覚ましてきたのだと、この詩においては言い切られている。
 
 
 問いの跡は、風の跡である。その風に悔恨が見えるのは、主体側の過去に対する態度を投影しているのか、それとも態度以前に過去に対峙する時の本源的反応なのか、どのようにこの構図的・論理的な記述に、悔恨を位置付ければ良いか、私にはわからない。直線的で数学的な「固有時との対話」には時々、孤独だとか、不安だとか、主体の心情を表す用語が突如現れては消えてゆく。そちらを軸にして読み解くこともできるだろう。しかし、主体の経験に根差した感覚を、理論化するところにこの詩の面白さがある。それは当然学問のように精緻な術語系を持っていないが、しかし、心象や生存感覚が理論化されて乾燥されたつなぎ目を有するときに、詩語もまた冷たく、乾いたかたちで美しい姿を現す。そういう意味では、詩情に対する深い信頼が、この詩にあると言えるかもしれない。