なぞる

なんか書いたやつ

「永訣の朝」再読ノート

久しぶりに宮澤賢治の『春と修羅』を読み返している。ぼくがこの詩集を読んだのは、高校1年生のころだった。かっこいい響きのタイトルに魅かれて、図書館でなんとなく手にとった。
 
そのころの私は詩というものにまだ関心がなかったから、高校生のときに読んだ数少ない詩篇のひとつと言って良いだろう。だからこそ、強く印象に残っている。
 
そもそも旧仮名遣いさえちゃんと読めなかったので、基本的に読み取れるはずのことさえ読み取れてなかったと言えるだろうが、美しいことが書いてあるという感覚だけがあった。久々に読んで、確かに今でも難解な部分は多いものの、詩情がより具体的なイメージを伴って見えるようになったことがとても嬉しい。
 
久しぶりに読んでも、心を動かされる詩はあまり変わっていなくて、やはり自分は「永訣の朝」に強く心を動かされる。高1の自分は、親しい人との死別をそもそも経験していないのだが、やはりなにか「別れ」のようなものに敏感であった。それは転校が多かったからかもしれないし、そういう気質であったからかもしれない。
 
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まず、第一に素晴らしいのは、空の暗さとそこから落ちてくる雨雪の明るさの対比であり、その空間の異様さに、死というモチーフや聖性を重ねると、自然描写がよりゆたかなものとして見えてくる。
 
うすあかくいつさう陰惨な雲から
みぞれはみぞれはびちよびちよふつてくる
 
 
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
 
陰惨な雲から降ってくるみぞれや雪の真っ白さ、そもそもその対比的にさえ見える天気のマジックが、永訣という事実の暗さと明確さをたたえている。写実的な天候の描写が、ある事実の器として機能することはよくあるが、複雑な感情に対する器としてこの上ないものと言えると思う。
 
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次に素晴らしいのは、詩における時制のねじれである。そもそも、この朝が永訣の朝となることは、妹も主体も予期できないことであり、当然だがこの詩は事実を投影したものではなくて、仮構として再構成された事実である。だからこそ、妹が詩におけるどのタイミングで死んだのかはわからないままであるし、最初から、主体は妹の死を既知のものとして行動するという時制のねじれがおこっている。このことに注目すべきである。
 
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
 
この朝の間に、妹がとおくにいってしまうことは、本当は主体は知らないはずなのに、ここでは既知のものとして、つかの間生きている妹へとよびかけられる。そのことは、死における特別な時制のねじれを逆転したものとして捉えて良いだろう。
 
死んでから訃報がとどくまでの間ぼくのなかではきみが死ねない/吉田隼人『忘却のための試論』
 
他者の死において重要な時間のねじれは、他者が死んでいるにもかかわらず、生きていると考えている時間が存在することであり、そのズレを巡って葛藤がある。この詩においては、妹は生きているにもかかわらず、死の時点を規定された存在として描かれることによって、葛藤する存在を死を受け入れる者から死に向かう者へと移すことによって、妹が雪をわたくしに所望するという展開を作り出していることにある。葛藤は、死に向かう者から死を受け入れる者へと言動を通じて移されていく。その構造が素晴らしい。
 
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素晴らしい点をすべてあげていくとキリがないのだが、最後に妹の言動として、この部分を引用したい。
 
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
 
急にローマ字で挿入される妹の言葉は、仮構たる詩において一層真実に近い部分であり、妹の声として見出されている。
 
あたしはあたしでひとりいきます
 
という意味という注がついているが、それよりもこの表記に注目したい。
 
当然、別れとは、ある存在とある存在が違う場所に進むことであるのだが、ここにおける別れは、主体の動作を伴わない。むしろ、病床で眠る妹こそが、egumoという形で、どこかへと行くという決意を固めている。それもOra Oradeというように、自分という存在を強く自覚しながら、どこかに行こうとしている。この詩が単なる主体の妹の死に対する感傷に留まらない深みを持つのは、妹の主体に対する強い訴えが、他の何とも文脈付けられずに残っているからに他ならない。その声は、いまだ主体とは異なる声として、主体の論理に回収されぬまま存在する声である。主体は、詩の運動によって妹の死を普遍化しようとしつつ、いまだ固有の声とともにあろうとしている。そのことの切実さを受け取りたい。