なぞる

なんか書いたやつ

根をもつこと

 哲学書を詩のように読んでいる。難しいことばの並びを、筆者の意図通りに「正しく」受け取ることは、ひとつの喜びであろう。しかし、ぼくは研究者ではないから、ぼくにとって重要なのは、その人それ自体の思想ではなく、ぼくがどう引き受けるかである。哲学書を読んでいると、ひかる一節があり、それを、ぼくは手でなぞり、感触を確かめては、神経を通じて頭の中に送り込み、プレゼントを開封するように、展開していく。

 


 根をもつこと、それは魂のもっとも切実な欲求であり、もっとも無視されてきた欲求である。/シモーヌ・ヴェィユ『根をもつこと』

 


 ヴェィユのことばは美しく、柔らかく、するどい。聖なるものを感じるような筆致に差し込まれているひかりはほのかで、冬の陽光のようだと思う。
 ある土地に根差すことに、ぼくは強く困難を感じている。ぼくは何年かおきに住む土地を変えざるを得ない都市生活者の子どもであった。都市という無機的な空間は、想像を膨らませれば、多くの人のはたらきによって成り立った巨大なシステムであり、そこに美があるのだが、小さいころの想像力は、生まれ落ちたこの空間を当然のものとしてみなしてしまう。都市に根差すことは可能だが、困難だ、そこにある経済史的な回路を掴むために、いくつもの迂回をしなければならない。
 それでもヴェィユが言う通りに、魂のもっとも切実な欲求を満たすために、ぼくが根ざしたものは、物語であった。家には大きな本棚があり、ぼくはそのひとつひとつを繰り返し読んだ。あるいはぼくが根ざしたものは、言語であった。日本語というゆたかな言語で聞き、読み、書き、話すことに根を下ろしていた。それは一つのシステムであり、一つの記憶だ、と思う。
 根差すことについて。たしかにそれは土地を想起させることばだが、土地のもつ隠喩が、ぼくたちをさまざまな主題へと接続させてくれる。そしてこの語の重要なニュアンスは、その土地ないし主題を見ることでも、知ることでもなく、根ざし、そこに留まることに重きを置いていることである。つまり、その主題とつながっている、その回路そのものの喜びを、魂のもっとも切実な欲求として浮かび上がらせることに、ヴェィユのテクストのひかりは向けられている。
 根をもつこと、その語の持つゆたかな響きをぼくは信じる。繋がりを求める時代において、よりしずかで、より深く、より聖的に、生きることの美しさを捉えたことばだと思う。