なぞる

なんか書いたやつ

それは本当に優生思想なのか:「内なる優生思想」をめぐって

<要約>
 「優生思想」や「内なる優生思想」という語は、最近様々な意味で用いられており、ときには混乱した形での用例も見受けられる。この記事では、歴史的な使用例や近年の事例を見ることによって、①遺伝子を巡った人間の集団の改良を目的とした思想、②あらゆる障害者差別、③「生産性が高い人、能力が高い人には生きる価値がある」という考え方、の三種類に整理した。混乱した形での語の使用によって、歴史的な意味が脱色されないように注意しながら、「優生思想」という語を用いるべきである。
 
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 日本における「優生思想」という語の使われ方は、SNS上を中心に、近年大きく変化している。それは、ぼくの見立てによると、以下の対談記事の影響を強く受けている。
 
 
 以上の記事をこのブログでは、「熊谷ー安田対談」と呼ぶことにする。Dialogue for PeopleというNPOのサイトに掲載されたこの記事は、フォトジャーナリストの安田菜津紀が、東京大学先端科学技術センターの熊谷晋一郎と対談する形式で、2016年7月26日に起こった「相模原障害者施設殺傷事件」をめぐって書かれた記事である。
 
 まずは単刀直入にこれを問いたい。
 
熊谷:生産性が高い人、能力が高い人には生きる価値がある、という考え方を「優生思想」ということがあります。私たちや私たちの先輩方がこの半世紀をかけて否定してきたのは、この優生思想です。
 
 「生産性が高い人、能力が高い人には生きる価値がある」という考え方は本当に「優生思想」と呼んで良いのだろうか。優生学/優生思想という本来の言葉の意味は、これとは異なる。
 
 arsviという社会学者の立岩真也が製作責任者であるサイトでは、「優生学」についてこのような定義がなされている*1
 

人間の性質を規定するものとして遺伝的要因があることに着目し、その因果関係を利用したりそこに介入することによって、人間の性質・性能の劣化を防ごうとする、あるいは積極的にその質を改良しようとする学問的立場、社会的・政治的実践。eugenicsの語は1883年にイギリスのF・ゴルトン Francis Galton が初めて使った。ギリシャ語で「よいタネ」を意味する。19世紀後半から20世紀にかけて、全世界で大きな動きとなり、強制的な不妊手術なども行われた。施設への隔離収容をこの流れの中に捉えることもできる。現在では遺伝子技術の進展との関連でも問題とされる。(「用語解説」 in 立岩真也「常識と脱常識の社会学」,安立清史・杉岡直人編『社会学』(社会福祉士養成講座),ミネルヴァ書房

 

 
 これがぼくの認識する優生学の定義である。ここで重要なのは、「遺伝」に注目することによって、人間の性質を改良する立場のことである。それはeugenicsが、gene(遺伝子)を含むことから、その語に埋め込まれたような意味である。優生学という実践においてよく結びつけられやすいのは、ナチス・ドイツにおける断種法・T4作戦と言った、人種主義や安楽死という思想と結びつく形で行われた、障害者に対する迫害である。しかし、当然それだけではなく、多くの先進国で、例えば、スウェーデン、フランス、カナダ、アメリカ、そして日本において障害者に対する強制不妊手術が行われた。日本における強制不妊手術は、1948年に制定され、96年までつづいた「優生保護法」を根拠として行われ、厚生省統計で「同意」と「強制」を含め少なくとも2万4991人が手術を受けた*2
 
 あるいは施設への隔離収容も、障害のある人を隔離することによって、そうでない者との子どもをもうけないようにするという生殖防止の意図で行われたとも言える*3。また、「遺伝子技術の進展」というのは出生前診断をめぐる問題を指している。ここではじめて、「内なる優生思想」という用語が現れてくる*4。すなわち、出生前診断における選択的中絶の問題は、これまでの国家を主なアクターとした「優生思想」が、より個人化された問題として捉えられていることによって、女性を中心に強いジレンマを抱かせるようになった。それは例えば、このような書き方で表される。
 

女性の自己決定権という点から、産む産まないは当の女性が決めて良いとの主張は擁護したいが、それは全く無反省に語って良いものなのか。...ここで問題にしているのは、当の女性自身に、そしてそのパートナーである男性自身に、自分とは異質な子、「まともではない子」はもちたくないという意識があるのではないか、あるとすればそれは認めてよいのか、ということである。重苦しい問題であり、「内なる」ままに隠しておきたい問題である。*5

 

 
 ここにおける「内なる」問題のニュアンスには、個人の持つという意味だけでなく、「隠された」というようなニュアンスを読み取ることができるだろう。
 
 話を元に戻そう。「生産性が高い人、能力が高い人には生きる価値がある」というのが優生思想であると熊谷は定義するのだが、ここに、従来の優生学/優生思想との大きな断絶が見受けられるのである。
 
 まず、最初に強調したように、障害の有無ではなく、生産性や能力の問題に置き換えることによって、「優生学」の持つ遺伝に関するニュアンスを無視してしまっていること。次に、優生学における行為的な側面、すなわち人を殺す、断種する、中絶するという行為と結びついた思想であることが、無視され「価値」の問題に転換されている。
 
 このような出発点に立った上で、どのような議論がなされているかというと、以下のようなものである。
 
熊谷:賛同する声も一枚岩ではないと思います。ただ、ことさらに、といいますか、露悪的に、といいますか、優生思想を声高に主張する人の中には、他ならぬその本人も優生思想の被害者であるという人が少なからずいるのではないか、そういう感覚は持っています。
 
もしかすると植松被告もそうだったかもしれませんが、多くの方々が、自分は“用ナシ”になってしまうのではないかという不安、不要とされてしまうのではないかという不安を少なからず共有している社会に、私たちは投げ込まれているのではないかな、と思うわけです。
 
その「不要とされるかもしれない」という恐怖心をどのように次の行動や考え方に転化していくか、ここに分岐点があると思うんです。
 
そこには二つ選択肢があると思います。一つは、私たちは皆、優生思想に苦しめられている、だからその優生思想が蔓延している社会そのものを変えていかなければならないという形、連帯するという方向です。ところが二つ目の選択肢は、あくまでも優生思想のゲームの上で勝負をしていこう、そして自分よりもより弱い立場に置かれていると本人が思っている人たちを、ある種排除することによって相対的な優位性を示していこう、というもの。自分は何かを成し遂げたのであるという風な、「有用性」を証明しようという方向です。
 
 ここで議論されているのは、ぼくには「能力主義」に関する議論に映る。ここで言われている「用無し」とか「不要」とされるのは、近年重要視されている「生産性」に関する問題と関連するが、それは「子どもを産む」みたいな意味の生産性を主に意味するのではなく、社会に対する貢献度みたいな、茫漠とした基準で人を測るときに使うものであろう。
 
 優生思想が蔓延しているというのは、ぼくもそう思う。それは例えば、強制不妊手術を受けた人々に対する救済がなされていないことである。しかし、皆が苦しめられているとは言えないと思う。特に、障害のある人、難病を抱える人、あるいはいまだ生まれていないが障害のある可能性がある命に対して、今のところこの思想は差し向けられているし、そこには明らかに不均衡があるだろう。
 
 
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 これだけでも熊谷ー安田対談を批判するのには十分だと思うのだが、もちろんこのような文脈で熊谷が発言したのには理由がある。それはおそらく青い芝の会が起こした運動において「健全者幻想」と呼ばれた思想を受け継ぐ形の発言だったのだろう、と推察する。
 
 脳性まひ者の団体である青い芝の会は、1970年代に優生保護法の「胎児条項」の問題や、障害のある子供2名をその母が殺害した事件に対する減刑嘆願運動などに激しく抗議した。その中で、横塚晃一などが、障害を抱えながらも、健常者身体に至上の価値を求めることを「健全者幻想」と名づけ、それに対しても批判をした*6.。そのような運動の中で、「障害者差別」という用語と「優生思想」という用語がほぼ同じ意味で用いられることも起こっている。市野川容孝は以下のように述べている*7
 

1976年に結成された全障連(全国障害者解放運動連絡会議)の第3回大会が78年に京都で開催されましたが、その際、「あらゆる障害者差別、優生思想と対決しよう」というスローガンが掲げられました。このスローガンは「優生思想」という日本語をめぐる1970年代の変化を、凝縮して表現しています。つまり、「あらゆる障害者差別」が「優生思想」という言葉で語りうるようになったのです。

 

 
 それを踏まえて、1970年代に見出された「内なる優生思想」とは何かを考えると、それは、「障害者自身が持っている障害者差別」と言えるだろう。ならば、前に指摘したような、遺伝の問題も行為の問題も関係がない、障害者差別の問題として優生思想をとらえることも、日本においては可能なのかもしれないと思う。
 
 とはいえ、熊谷は障害の問題を能力の問題へと転換させている。もう一度熊谷の発言を見てみよう。
 

熊谷:生産性が高い人、能力が高い人には生きる価値がある、という考え方を「優生思想」ということがあります。私たちや私たちの先輩方がこの半世紀をかけて否定してきたのは、この優生思想です。

 

 
 たしかに障害がdisabilityであることを踏まえるならば、それは確かにable(できる)を巡った問題であると言える。そのように受け取ることはできる。しかし、障害者差別の問題を、能力による差別や価値づけの問題に、簡単に転換できるかと言ったら、ぼくにはそうは思われない。この記事を読む人の多くが、いわゆる障害(impairment)を持たないマジョリティであると考えれば、なおさらである。マジョリティが考える能力の問題とは、例えば生活や生命の維持を助けなく行うことができる、という能力の問題ではなく、より高度の、例えば学力やコミュニケーション能力やお金を稼ぐ能力の問題であるからである。
 
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 話がどんどん混乱していくので整理すると、優生思想は今のところ次の三種類を中心とする意味で用いられている。
 
①遺伝子を巡った人間の集団の改良を目的とした思想。
②あらゆる障害者差別。
③「生産性が高い人、能力が高い人には生きる価値がある」という考え方。
 
 そして「内なる優生思想」という用語もそれに対応して次のような文脈で用いられてきた。
 
出生前診断における優生思想の個人化。
②障害者自身による障害者差別。
③お互いに能力を競い合わなくてはいけないような時におこる、協力するというだけではない、相手を押しのけていこうというような思い。
 
 次のような三種類の問題が、混線する形で今、「内なる優生思想」と呼ばれている。そして、それらが全て不可避であるというように言われる。そしてそれぞれが不可避である事情もわかる。しかし、それらを混乱せずに考えることがどのくらいできているのだろうか、と思う。正直なことを言うならば、②は障害者差別、③は能力主義と言えば良いのではないか、と思う。
 
 「優生」という漢字から、「優れた生」のようなニュアンスが生まれやすいのもあるのか、②の段階で、ぼくらは諸外国とは異なる独特な使用法をこの語に含ませている。それで混乱しないならば構わない。だけど、ぼくはこのような使用法にかなり混乱している。だからこそ、それは本当に優生思想なのか、と問いたい。あるいは、どの優生思想なのかを問いたい。これら3つの間には連続よりも断絶があると思う。なのにも関わらず、ふわっと「優生思想」として諸言説が批判される。本当にそれで良いのだろうか、と思う。
 
 
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 特にインターネット上においては優生思想という語は近年多く使用されているようだ。
 

 
 上のグラフは青を「優生思想」赤を「優生学」として、Google Trendsにて分析したものだが、驚くべきことに、2016年に起こった相模原事件のときよりもよりもはるかに、2020年や2021年に「優生思想」という語がインターネット上では関心を集めていることがわかる。では、そのときに起こっていたこととはなんだったのか。
 
 2020年7月16日には、ミュージシャンの野田洋次郎が、「お化け遺伝子(注:優れた遺伝子、の意)を持つ人たちの配偶者はもう国家プロジェクトとして国が専門家を集めて選定するべきなんじゃないか」とツイートし、炎上した。確かにこれは、遺伝子を巡った人間の集団の改良を目的とした思想と言えるだろう。この意味では、これは①の意味での優生思想だと言える。これが一つ目の山である。
 
 二つ目の山は、2021年8月5日メンタリストのDaiGoがYouTubeの動画で、生活保護の利用者やホームレスの人の命を「どうでもいい」と述べ、「(人間は)社会にそぐわない、群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑して生きている」などと述べ、彼らに対する、社会からの排除、抹殺を示唆した発言に対するリアクションである*8。この発言がおぞましいのは確かだが、ぼくはこれを「優生思想」として的確に整理することが難しいと感じる。というのは、これはやはり、遺伝などに関係する集団の改良の思想ではなく、むしろ殺害や排除による集団の改良の思想であって、そこに病気や障害の問題は含まれていない。これは自身の整理においては、①の影響を受けながら、③のような定義をしているような例としてみることができる。すなわち、この文脈では、生産性とか、能力というものが、社会に対する利益とパラフレーズされ、その命に優劣をつけるものとして、優生思想という語が用いられている。
 
 この二つの問題が相応しくない発言であることはぼくも当然賛同するが、例えば殺傷事件や、国との旧優生保護法をめぐる裁判の問題を記述することではなく、個人の発言に対する反応として「優生思想」という語が多く用いられていることがわかる。
 
 そして、それとともに、例えば2021年8月13日には安田菜津紀が熊谷ー安田対談のリンクを再びツイートするなど、このような発言があるたびに、一つの参照点として、熊谷ー安田対談は用いられている。そして、これからもそのような問題があるたびに、どのような用法で、どのような歴史的経緯で生まれた言葉なのかを意識することなく、優生思想という用語が用いられるのではないかと思う。ぼくはそこから、強制不妊問題や障害者差別に対する批判や抗議のニュアンスが失われることを危惧している。当然、他の差別を容認するという意味ではないが、その語に含み込まれた歴史的な意味が脱色されることは、優生思想という語を用いるにあたって良いとは思わない。
 
 
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 だから、あなたがもし優生思想という用語を用いたいのであれば、「それは本当に優生思想なのか」「どの優生思想なのか」を自らに問うてから用いて欲しいと、ぼくは思う。そして願わくはその語に込められた歴史的意義に思いを馳せて欲しいと思う。それを理解することで、その語の持つ批判的な強度は高まる。
 
 単なるバズ・ワードで終わらせたくないと、思う。なぜならば、そこには明確な被害者がいるからである。日本や外国で、少なからぬ障害者が不妊手術を受けたその傷痕、あるいは1940年代にドイツ周辺で殺害された、障害者や精神病患者の死体、あるいは障害者へのヘイトクライムによる被害者の名を、想起せねばならない。*9そのような歴史・現実に対する怒りを込めてぼくはこの言葉を使う。そうでないことに用いる例があっても良いと思うが、その歴史的事実を引き連れずに、単なる分析概念として用いることには、明確に反対である。
 
 
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 熊谷ー安田対談を批判する形でこの文章は書きましたが、ぼくはお二人とも尊敬している方ですし、なんとかお二人のメッセージを受け取ろうと思いました。しかし、この対談は相当にハイコンテクストなので、注釈が必要だろうと思って書きました。
 
 これをお読みになった方の感想をお待ちしています。あるいは引用・拡散なども歓迎です。というのは、以下のような状況があります。
 
 Googleで「内なる優生思想」で調べると、様々な記事が出てきます。「青い芝の会」に触れた論文や、「熊谷ー安田対談」、そしていくつかのニュース記事が上の方に出てきます。しかし、体系的に「優生思想」の使われ方を論じた記事はなく、それぞれ異なった意味で、ときには漠然と使われているように思います。ぼくは、これではいけないとずっと思ってきました。どのような意味なのか、どのような歴史的経緯があるのかを把握することなく、この語は理解できないと思っているからです。そしてその混乱した語用論の中で、歴史的事実が脱色されることが怖いのです。
 
 もちろん、日本において強制不妊に関する報道は近年たくさんなされてきました。裁判の状況がしばらくは報道されることを考えると、杞憂に終わるかもしれません。しかし、この大きな問題についての言及は、まだまだ少ないと感じています。それは障害のある人が、歴史的に、社会的に、周縁化されていることが大きいと感じています。これからも、起こってはほしくないですが、優生思想に関係する事件や発言が起こる可能性があります。そういうときに、このブログを参照して欲しいと思っています。
 
 

*1:

優生学・優生思想 | Eugenics

*2:毎日新聞取材班編2019『強制不妊:旧優生保護法を問う』毎日新聞出版.

*3:森永佳江,2012「福祉国家における優生政策の意義—デンマークとドイツの比較において——」久留米大学文学部紀要社会福祉学科編12号: 37-52.

*4:森岡次郎2006,「「内なる優生思想」 という問題:「青い芝の会」 の思想を中心に」大阪大学教育学年報, 11, 19-33.

*5:徳永哲也1997「生命倫理と優生思想: 出生前診断と選択的中絶をめぐって」メタフュシカ, 28, 65-80.

*6:横塚晃一 2007『母よ! 殺すな』生活書院.

*7:

命についてのレクチャー 講師:市野川容孝先生「優生思想について考える」2020年8月19日 | れいわ新選組

*8:

メンタリストDaiGo氏のYouTubeにおけるヘイト発言を受けた緊急声明 | つくろい東京ファンド

*9:市野川容孝,1997『身体/生命』岩波書店:v-vi.