なぞる

なんか書いたやつ

朝5時から花見をした話

 部屋の掃除をしながらなんとなく桜が見たくなって、だけど普通に花見をするんじゃなんかつまんねえな、と思って、友人に急にラインを送った。3ヶ月ぶりのライン。
 
 
 「朝クソ早起きして花見してコーヒー飲んで解散する遊びしようぜ」
 
 
 すぐ既読がついて、「いいよ〜」と返信がきた。こいつはわけわかんない提案でもすぐに乗っかってくれる。最高だ。
 
 
 朝の5時に渋谷駅に集まり、センター街を進んで、代々木公園へ向かう。朝まで飲んでいた人たちがぞろぞろと駅に向かうのに逆行し、ぼくらだけがセンター街の奥へと進んでいく。ワインの瓶を片手に写真撮影をする人、路端で倒れて吐く人、それを当然のように遠巻きに眺める警察官。もう空はうす明るくなっていて、渋谷の夜が終わりつつあり、その中でただぼくらだけが朝の始まりの時間を刻んでいく。場に流れる正しい時間の流れに逆らうように歩き、ぼくらはセンター街を抜けた。
 
 
 「なんだか興奮するね」初めて友達の家にお泊まりして夜を明かしたときのようにぼくは興奮していた。小学校2年生、いつもなら寝なきゃいけない時間なのに、12時を超えてもテレビ・ゲームを続けることが許されたあの日のうぶな感覚を思い出す。いつもと違う時間の刻み方をするのはそれだけで興奮するものだ。
 
 
 雑談をしながら、公園に入る。仄明るい空をバックグラウンドにした桜の花はきれいだった。爽やかな昼の表情でも、妖艶な夜の表情でもなく、なんだか眠そうな顔をしているように見えた。自己投影かもしれないけれど。
 
 
 桜がたくさん植えられている場所は、カラスだらけだった。前の日の花見客のゴミがまだ回収されていないのだ。1分間に100回くらい「カーッ」という鳴き声が聞こえる中で、桜を見ながら、「うわ〜新学期だるいなあ」みたいなありきたりな話をした。
 
 
 日がだいぶ昇り、空が爽やかな青色になり、桜がいつもの美しい表情に変わったあたりで、お腹が空いたので、渋谷の神戸屋キッチンで朝ごはんにした。神戸屋キッチンは銀座線の改札のすぐ近くにあり、出勤するサラリーマンたちを横目に、ゆっくりとご飯を食べるのがなんだか背徳的でワクワクした。規律されたサラリーマンの時間と、なんの予定もないぼくらの緩やかにたゆたう時間が接触する。
 
 
 円環的な時間と直線的な時間があるという話がよくあるし、円環的なものを前近代的・農村的、直線的なものを近代的・都市的なものとみなす考え方があるけれど、都市には直線的な時間しか流れていないかと言えばそうではない。円環的な時間や直線的な時間は混在するし、そして円環的な時間の中でも様々なものがあり、それらは重なり合っている。渋谷センター街の時間は早朝に「夜」が終わり、サラリーマンの朝は早い。あるいは、円環的/直線的時間という単純な二分法では記述できない時間もあるかもしれない。螺旋状の時間や、行きつ戻りつしながら進む時間や、そんな複数の時間感覚がぼくらの中にある。忙しい毎日はそのような感覚を殺してしまうけれど。
 
 
 訳のわからない時間の使い方は、世界に複数の時間が流れていることを思い出させてくれる。異質な時間を誰かと刻むこと、それが遊びの本分のような気がする。