なぞる

なんか書いたやつ

文化祭と鬼

 
 祭りが苦手だ。パーソナル・スペースが人より広いので、あんな人口密度の高いところに行きたくないし、客引きもうざい。一番嫌いなのは、「ちょっとした顔見知り」の人が客引きのために声をかけてくることだ。普段なら、道ですれ違ってもお互い気づいてないふりをするような人間が、ここぞとばかりに「久しぶり!」と声をかけてくる。3日前にすれ違ったんだけどな。
 
 
 日常生活を送ることだけで精一杯だし、それに十分満足を感じている。ゴミを出し、掃除をし、洗濯し、授業の予習をし、授業を受け、復習をし、バイトをし、好きな本を読み、たまには美術館や映画館に行く、そんな生活の繰り返しに十分満足しているし、その繰り返しを断ちたくないと思う。部屋は片付けないと汚れるし、洗濯物も読まなきゃいけない文献も溜まっていく一方だ。苦手な祭りで2日間が潰れてしまうのはもったいない。それなりには楽しめるし、文化祭が終わったら終わったで寂しいのだけど、本気で楽しめない自分がいた。だから、中学生の時から文化祭を上手に楽しめなかったし、きっと今年もそうなると思っていた。
 
 
 例えば、一年生の五月祭の時にこんな詩を書いていたし、自分が書いたのだから当然なのだろうけど、共感できる。
 
 
非日常より日常が好きでした
人混みが苦手
がんばってテンションあげる感じが苦手
散乱するゴミが苦手
急にフレンドリーになるのが苦手
でも祭りのあとはどこか寂しい
非日常の夜の帳が降りたら
日常をもっと愛して
非日常をもっと憎んで
「祭りの詩」
 
 
 
 
 今年、人生で初めて文化祭を楽しめたかもしれない。今までは、文化祭で出し物をすることの意義が全くわからなかった。素人が牛串を売ったり、タピオカを売ったりして何になるというのだ。素人がお化け屋敷を作って、「調べ学習」のポスターを教室に貼って、何になるというのだ。だけど、やっとわかった気がする。今までよくわからないでなんとなくやっていたことの意味が、ようやく腑に落ちた。
 
 
 興味のある公開講座を見に行ったとき、普段なら絶対に講演に来ないような人がいた。なぜかよくわからないが飲食物をたくさん抱えて、一番前の席で講演を聞こうとしていた。ポップコーンを食べながら映画を見るように。そのよくわからない人は、よくわからない理由で五月祭実行委員にキレていたし、講演が終わった後よくわからない質問を先生にしていた。
 
 
 大げさに聞こえるかもしれないが、これが文化祭の意義だと思うし、本髄だと思う。
 
 
 そう思うようになったのは、人文系の院生がやっていた、ジブン×ジンブンという展示企画を見に行ったときである。その企画は、文系学部廃止論だったり、「人文学なんていらない」という声が起こっていることを、「人文学がアピールする機会が少ないのが理由の一つ」と捉え、その研究を「自分ごと」としてお客さんに捉えてもらおうという趣旨の企画だった*1。内容自体も素晴らしかったし、非常に凝った展示だった。そんな展示を多忙な院生がやっていることを考えると、彼らが文系学部廃止論のような世間の空気に対する強い問題意識を持っていることをひしひしと感じた。
 
 
 祭りになると鬼がやって来る。理解しがたい存在がやって来る。そいつは飲食物をたくさん抱えて講演を聞こうとしたり、酔っ払って東大生に文句を言ってみたり、ゴミをポイ捨てして汚していったりする。
 
 
 そんな鬼が、大学の先生の講演を聞いたり、学術企画を見たり、「東大生って本当にいるんだ」と言ったりする。彼らがどう思うかはわからない。つまらないと感じたかもしれない。それでも、普段なら絶対に接触しないもの同士が結びつくことに、祭りのすごみを感じる。
 
 
 3年生にもなると、文化祭に行かない人が多いし、実際ぼくも前回の文化祭に参加していない。正直な話、文化祭なんてくだらないと思っていた。東大生が牛串を売って何になるんだと思っていた。だけど、やっぱり意味があるかもしれない。理解し得ない他者——鬼を招くこと。鬼に「学問なんていらない」と思われない前に、大学という場所を開くこと。そのためにぼくらはお酒を売っていたのかもしれない。苦手な人混みが少しだけ、愛おしく見えた。
 
 
 (「世界のお酒」という企画でお酒を売らせていただきました。来ていただいた皆さん、ありがとうございました!)

*1:http://todai-umeet.com/article/36640/ Umeet 記事「人文学がなくなるかもしれない…?学問の危機に立ち向かう駒場祭企画に迫ります」2019/05/21閲覧