なぞる

なんか書いたやつ

ゼミのあとで

 大学時代、障害のある人を呼んで、ライフストーリーを語ってもらうというゼミにいた。普段遭遇しない身体を持つひとの語りを聞くことは、とても新鮮だった。ゼミのあとは、懇親会で意見を語り合うことができた。好奇心が満たされ、居心地が良かったから、ぼくはおそらくそのゼミにいた。
 
 
 人間の身体は、あるいは人生とは、とても複雑なものだ。複雑性を減らすことで、身体についての、人生についての語りが成立する。そしてぼくらは、zipファイルを展開するように、その語りがいかに複雑性を縮減したのかを想像し、語りから身体や人生を復元する。
 
 ぼくは感受性が強く、毎回さまざまなことを思った。取り止めもなく、まとまりもしない言葉たちを、リアクションペーパーに書き出す瞬間に、それまで身体の底に澱のように溜まっていた感情が、形になって溢れた。
 
 ゼミのあとの懇親会で、学生同士で議論しながらしていたことは、特定の問題解決を促すものではなかった。ぼくらがしていたことは、それぞれが復元した身体や人生を自分のことばで語り直し、その語り直し方から、相手の学生の考え方を理解しようとすることだ。感想はときにその学生の人生と結びつき、さらなる感情の動きを生み出した。
 
 あれは何だったのだろう、と思う。
 
 
 難病の患者さんの介助者(ケアスタッフ)をアルバイトでしたのも、そのゼミの縁だった。仕事をしながら感じたのは、仕事をする上ではそのような強い感情も、身体や人生を想像することも、ほとんど役に立たないことだ。相手の身体を想像して感情を発生させていては、仕事を継続的に行うことはできない。重要なのは、患者さんの生活がどのようにすればより良いものになるのかを考えることや、日々の仕事の習得であって、そこには感情は要らない。さらに、相手が言ってもいないことを勝手に想像すると、大きなミスにつながる。
 
 しかし、深いところで患者さんを支えることに喜びや善を感じなければ、そもそも仕事を始めることができないし、継続的な支援も難しい。
 
 ゼミが障害者支援に果たしていた役割は、根本にあるポジティブな感覚の養成だった。障害のある人とともに生きること、社会参加を支えることが、望まれるべきものであるという感覚は、あのゼミで手に入れたものだ。
 
 
 何かをなすときに、表面的な感情の反応はあまり役に立たない。合理的な思考を奪い、問題解決を難しくする。人間関係を安定させるのにコストがかかってしまう。だけど一方で、深いところに感情の水脈を作れば、問題に対して継続的に向き合うことができる。その水脈をゼミは作ってくれたと思う。
 
 水脈を一度手に入れたゼミ生はみんなそれぞれのタイミングでゼミを離れる。実際的な問題解決のヒントは、感情の溢れる場所ではなかなか手に入らない。水浸しになった自分の身体を乾かしたあとで、ぼくはそこで出会った人びとからの負債を返すことになるだろう。