両成敗の哲学
両成敗とは、「勝ちも負けもない」ことでは決してない。両成敗が指し示すもの、それは両者ともに負けるという事態だ。
既存の二項対立にどのように対応するか、たとえば「勝ち組は負け組に勝っている」という命題をどう崩すか。
放っておくと、「勝ち組」という語はポジティブなものとして固定されてしまう。だからぼくらはそれを揺るがすためにいくつかのレトリックで対抗する。
①ひっくり返す
「負けるが勝ち」「負け組は勝ち組に勝っている」
ひっくり返す戦略は、ネガティブなものをポジティブに定位し、ポジティブなものをネガティブに反転させる。
しかしこれは、新たな二項対立を生むだけだとも言える。
②あいだを提示する
「引き分けは?」
あいだを提示する戦略は、ポジティブなものとネガティブなものの区別が機能しない場所を提示することで、その二項対立の有効性に疑義を唱える。
しかしこれは、二項対立の機能する対象を減らすだけで、存在そのものを疑うには至っていない。
③疑う
「勝ち負けなんてない」
疑う戦略は、ポジティブなものとネガティブなものの区別を疑うことによって、二項対立の成立自体に異議申し立てをする。
これは極めて有効な一方、二項対立そのものが消えてしまう。すなわち、「勝ち負けがない」ならば「勝ち」も「負け」も分析できない。
そのどれでもない両成敗
それらとは異なる戦略として両成敗があるのではないか。両成敗を定式化するとこうだ。
「勝ち組も負け組も負けである」
二項対立を両方ネガティブなものとして表すならば、当然もう一つの項が出現することになるだろう。すなわちここで問われるのは、
「勝ち組と負け組は何に負けているのか」
「何が、勝ち組と負け組に勝つのか」
である。
その答えは歴史的に考えると容易であり、それは権威や法、すなわち喧嘩両成敗を定めた権威や、喧嘩両成敗そのものが、喧嘩をしている両者より優位だとわかる。
ここまででわかるように、喧嘩両成敗という操作は、ある二項対立を両方とも劣位に置くことで、その操作そのものを優位とすることである。
なぜ両成敗は止まらないのか
ここでゲスの極み乙女。の『両成敗でいいじゃない』について考えてみよう。本稿が最後に考えたいのは、「なぜ両成敗は止まらないのか」である。
単純に考えれば、両成敗は他の操作に比べ止まってしまう操作である。二項対立を反転させる操作は無限に繰り返しうる(というかこれが喧嘩である)し、例外や線引きについて考えるのは定義の問題なので繰り返しうる。
一方で両成敗は、一度その操作をしたら終わってしまう。このことは、喧嘩を止める手段として両成敗があることからもイメージしやすい。
ここで重要なのは、二項対立を疑い無化する戦略と、両成敗がどう違うか、である。両者はともに、ひとつの操作でその二項対立の文脈から離れることに成功している。決定的に異なるのは、前者はその二項対立に戻れない一方で、後者は二項対立を保存していることである。
「両成敗は、勝ち組と負け組に勝っている」
と述べたとき、勝ち組と負け組という二項対立はいまだ存在している。トーナメントを考えてもらえばわかりやすい。つまり、
「AチームはBチームとCチームの勝者に勝った」
という表現は、BチームとCチームの勝敗を重視してはいないが、そこに対立があったというステータスは残るのだ。
両成敗は、ある二項対立を保存しながら、それらを劣位に置くことによって、文脈を「両成敗は喧嘩より良い」というものにずらすことだと言える。二項対立が保存されるからこそ、ぼくらは元の二項対立を何度でもやり直すことができる。だから、両成敗は止まらない。この歌で賭けられているものは、戦いをやめることではなく、中断することの価値だと、ぼくは思う。