なぞる

なんか書いたやつ

可能性と軌道

まみの白い机は夢にあらわれて「可能性」と名乗った。アイム、ポシビリテ
 
可能性。ソフトクリーム食べたいわ、ってゆきずりの誰かにねだること
 
可能性。すべての恋は恋の死へ一直線に堕ちてゆくこと/穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』
 
 穂村弘の「可能性」がすごく好きだ。一首目、まみが手紙を書いている机が、ほむほむの夢にあらわれる。様々な手紙を生み出す可能性を秘めた机は、一方で、夢の中にあるから、様々な机の可能性の中の一つに過ぎない。「可能性」という語が、事後的に成立するものや未来に向かうものを含めた、幅広い表現で表されている。「アイム、ポシビリティ」の「アイ」の曖昧さによって、机だけでなくすべての主体を「可能性」として表しうることを示唆している。二首目、可能性の一つとしての、シチュエーションとして提示される、まみの行動。ゆきずりの誰かにそうねだっても別に良いし、そういう情景があっても良い。ゆきずりの誰を選ぶかもさまざまな可能性から選び取られたものだが、それは多分選定したのではなく、たまたま「誰か」を選んでしまうという形で、事後的に可能性が浮かび上がる。三首目、すべての恋が恋の死に堕ちてゆくならば、その言明の内部においては、複数の選択肢はない。さらに堕ち方もまた、一直線であり、他の軌道は描かれない。しかし、主体はそのことに可能性を見出している。必ず、すべてのものがそうなるというのもまた、100%という意味での可能性ではあり、可能性が不可能性と表裏になっていることを示している。輪郭が広がっていくものも、鋭く閉じているものも、可能性という語でまとめてしまうのが、とても鮮やかだと思う。
 
 
おにぎりをソフトクリームで飲みこんで可能性とはあなたのことだ/雪舟えま『たんぽるぽる』
 
 おにぎりをソフトクリームで飲み込むのはわたしかもしれないし、あなたかもしれないし、それとも想像上の何かかもしれないのだが、そのなんでもありな感じの可能性をあなたと言い切る姿勢には、すごく好ましい要素を受け取ることができる。しかしそのあたたかい感じの裏では、「可能性とはあなたのことだ」と突き放しているような印象も受ける。穂村弘の歌では、可能性のあとに続く言葉との関係性を明示していないが、雪舟えまの歌は、よりはっきりと可能性を定義する感じの言い方だと思う。拡散しそうな可能性が、あなたの内部に閉じ込められる。
 穂村弘の歌への返歌としてこの一首を鑑賞することもできる。アイム・ポシビリティと名乗ったまみの机も、ソフトクリームをねだったまみも、すべてはあなたが作り出したものである、と言っているのだとしたら、ここに主体としての作者を見ることができるかもしれない。
 
 すべての恋は、一直線の軌道を描きながら、恋の死へ堕ちてゆく。飛行機雲がぼくには見える。それが美しいとぼくは思っている。