なぞる

なんか書いたやつ

東田直樹「夏の気分」鑑賞

 僕たちは、おかしいほどいつも、そわそわしています。一年中まるで夏の気分なのです。人は何もしない時には、じっとしているのに、僕たちは学校に遅刻しそうな子供のように、どんな時も急いでいます。
 まるで、急がないと夏が終わってしまう蝉のようなものです。
 ミンミン、ジージー、カナカナと泣きたいだけ泣いて、騒ぎたいだけ騒いで、僕たちは時間と戦い続けます。
 秋になる頃、蝉の一生は終わりますが、人間の僕たちには、まだまだ時間は残っています。
 時間の流れに乗れない僕たちは、いつも不安なのです。太陽が昇って沈むまで、ずっと泣き続けるしかないのです。/東田直樹「夏の気分」『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』
 
 
 
 水の中にいれば、静かで自由で幸せです。
 誰からも干渉されず、そこには自分が望むだけの時間があるのです。
 じっとしていても、動いていても、水の中なら時間が一定の間隔で流れているのがよく分かります。
 僕たちには、いつも目や耳からの刺激が多すぎて、1秒がどれだけで、1時間がどれだけなのか見当もつきません。/同「どうして水の中が好きなのですか?」
 
***
 
 「夏の気分」というのは例えば厳しい太陽の日差しのことや、アスファルトの匂いや、アイスの味などを想起する、極めて広い概念である。だけど、そのノスタルジックな感じは、そわそわしている理由として、なぜか納得してしまうような、つながりかたをしている。
 
 それが、二行目で蝉にフォーカスがあたり、そして蝉は「急がないと夏が終わってしまう」生きものだと言い切られる。その言い切りというか、前提についていけないのだが、三行目で、より詳しく説明される。蝉は、泣いて、騒いで、時間と戦っているのだと言う。それはおそらく時間が短いからではない。時間の流れに乗れないからだ。
 
 筆者は水の中ならば時間の流れがわかるというが、蝉は水の中にいることができない。だから、蝉は一生が短いことを知りながら、その短さがどれくらいかもわからず、不安で泣いているのだ。あるいは、泣くことを通じてどうにか時間感覚を掴もうとしているのだ。それは一つの戦いである。
 
 人間の僕たちは、蝉が死んだ後もまた時間が残っているから、泣き続けるしかない。そこで持ち出される、太陽が本当に効果的だ。それは、眠れば時間と戦わなくて良いということなのかもしれないし、太陽が人生の比喩なのかもしれないのだが、大事なのは太陽というのは、時間を示す記号でもあるということだ。時の流れを示すはずの太陽が出ている間、泣き続ける「僕たち」。その中から、太陽の輪郭が沈むように、自分がキュッと締め出されてしまう感覚が好きだ。
 
 東田直樹はとにかく比喩が巧みな作者だと思う。比喩の上に比喩を重ねるような書き方なのに、説得させられてしまう、あるいはASD者の身体感覚に近づけるような感覚になる。それが、東田の比喩の力だと思う。
 
◇東田直樹,2016『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』KADOKAWA.(2007年の単行本を文庫化したもの)