なぞる

なんか書いたやつ

発射されない拳銃

 
 チェーホフは「物語に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはいけない」と言った。*1ストーリーを語る時に、必然性のない要素を入れてはならない、という意味らしい。たしかに、すべての伏線が回収された物語は美しいし、「これは伏線だな」と思っていたものが結末まで放って置かれると、「え、あれなんだったん?」という気持ちになる。ページを後ろからめくり、どこかで回収されていないかを確認したくなる。
 
 
 伏線が回収されていないモヤモヤは、オチのない物語を聞かされた時のモヤモヤとよく似ている。2分くらい聞いた話に全くオチがないと、「え?何この話??」という気持ちになる。起承転結の「承」の部分だけ聞かされたような気持ちになる。お前の話、起ち上がってすらいないんだけど。
 
 
 
 A「カレーって好き?」
 
 B「好きだよ」
 
 A「そうなんだ、おれは好きじゃないんだけどさ」
 
 B「うん」
 
 A「あっ、それだけなんだけど」
 
 B「えっ」
 
 A「それでさ、こないだTOEIC受けたんだけど」
 
 B(カレーは?カレーとTOEICになんの関係があるんだ…?)
 
 
 
 こんなどうしようもない会話がたくさんある。どこにも着地しないわけのわからない会話の断片。物語には決してならない会話文。
 
 
 例えばAとBのラブストーリーを映画化するとして、絶対にこのシーンはカットされるだろう。小説にも絶対ならない。だけどこの手のどうしようもない会話がこの世には溢れている。
 
 
 
 ストーリーは大体、結末から逆算して作られる。結末に合わせて必要な情報のみが選択され、不要な情報は切り捨てられる。でも、不要な情報には不要な情報なりの息遣いがあって、それが消えてしまうことはなんだか悲しい。
 
 
 発射されない拳銃がない物語は、回収されない伏線がない物語は、美しいかもしれないけれど、リアリティがない。実際には、発射されない拳銃は山ほどあり、フラグはいとも簡単にへし折られ、カレーの話はいつのまにかTOEICの話にすり替わる。なぜならば、現実は結末に合わせて編集されていないからだ。結末に合わせて編集しすぎた物語は、どこか嘘っぽくなってしまう。
 
 
 細かなディテールが、物語にリアリティを作り出してくれる。結末に合わせて編集されていない何かが、発射されない拳銃が、物語を真実らしく見せる。

*1:村上春樹が『1Q84』の中でタマルにこのように語らせている。 村上春樹(2009)『1Q84 book2』新潮社.